佳作「柔らかな手 矢口美奈子」
ここへ来た新人が最初にすることは手紙を書くことらしい。私に声を掛けてくれた少女が教えてくれた。
「手紙といっても誰かに届く訳ではありません。私たちは死んでいますから。書くことで自分を見つめ直し、現実を受け入れるための作業です。心残りや怒り、愚痴を書いても構いません。大切な人へ感謝の言葉を綴るのも良いでしょう。たとえ秘密の告白をしたとしても、あなた以外に読む人はいませんからご心配なく」
幼い顔に似合わず、大人びた口調で少女はそういうと、私にペンと便箋を手渡した。
手紙なんて最後に書いたのはいつだろう。普段はメールや電話で何でも済ませていた。背すじがぴんとなるような、厳かな気持ちで私はペンを取った。
こんな形で二十一年間の人生が終わるなんて、今でも信じられない。駅の階段を踏み外し、転落しただけでまさか死ぬなんて。悲しくて、悔しくて、情けない。
それに家族や友達に別れの言葉さえ言えなかった。パパ、ママ、皆、今まで本当にありがとう。ちょっと早すぎたけれど、幸せな生涯でした。
未来に対する心残りはたくさんあるけれど、死んでしまったのだから仕方ない、とたいていのことは諦めがつく。でも、生きている間に抱えた心残りは、死んでも消えることはない。私にはそんな心残りがひとつだけある。
あのとき、手を離さなければ……。
小学校のころ、近所にアキちゃんという女の子がいた。年齢も近く、いつも一緒に遊んでいた。周囲の人たちは姉妹みたいに仲が良いのね、って言ってたけど、私は違った。他の子と遊ぶことを許さず、私の物を平気な顔して盗む彼女を私は好きになれなかった。
だから二人で川遊びをしていたあのとき、私は繋いでいた手を離した。泳ぎが苦手な彼女を怖がらせたかった。ちょっとした意地悪のつもりだった。それなのに……。
彼女は川の流れに足を取られ、どんどん下流へ流されて溺れて死んだ。
私は彼女と一緒にいたことも手を離したことも死ぬまで誰にも言えなかった。その代わり、彼女の柔らかな手の感触が私のそばから離れることはなかった。まるで彼女が忘れることを許さないかのように。
アキちゃん、私もあなたと同じように死んでしまったんだ。私がしたことを許してほしいとは言えないけれど、私は生きている間ずっと苦しかった。もう終わりにしたい。アキちゃん、本当にごめんなさい。
私はペンを置くと、手の震えがしばらく止まらなかった。ずっと言えずに堆積していた言葉をようやく吐き出せた気がした。
「手紙を書き終えたんですね。良かったら温かい紅茶でもどうぞ」
振り返ると、先ほどの少女がカップを持って立っていた。
「ありがとう」
少女からカップを受け取る際に、私の指が少女の手に触れた。
またあの感触が蘇る。
アキちゃんの手だ。
少女の顔はみるみるうちにアキちゃんの顔に変わっていった。
「ずっと待ってたの、ヒロちゃんのこと。でも、あんまり遅いから私、ズルしちゃった。あたしがヒロちゃんの背中を押したの。ごめんね、ヒロちゃん。でもこれでおあいこだよね」
私の中からようやく消えかけていた柔らかい手が、再び私を捕えた。たとえどこへ行こうとも、私は彼女の手から永遠に逃れることはできない。