佳作「魔神の手 菅保夫」
そこは先のない部屋だった。窓はなく照明も付いていない、どこかスキ間から漏れてくるわずかな光もない闇の部屋である。風も入ることがなく、まるで密閉されているかのようで外の音も聞こえてこない。それは内から外へも同じことであった。また年中を通してその部屋は冷たく乾燥していた。
部屋に床はなく、土間だった。その上に戸板が一枚置かれ、そこへ赤子が寝かされている。また生まれて間もなく、産着一枚だけでこの部屋の寒さにはたよりない。けれども赤子は泣きもせず、今は穏やかな寝息をたてている。
いつまでたっても赤子に世話をする者は現れなかった。赤子はこの部屋に捨て置かれたのである、誰も来るはずはなかった。その赤子は普通の人間ではなかったのである。この世界の人は生まれつき右の手の平に寿命が刻印されているのだが、この赤子は(零)と印されていた。この場合だと死産か、そうでなくとも生後間もなく亡くなってしまうのである。しかしこの子はこの通り生き続けているのだった。古い伝承によるとそのような赤子は世界を破壊する魔神になるといわれており、親族はその赤子を恐れ、この部屋に捨てたのである。
赤子が捨てられた部屋に入るにはいくつかの扉を開けねばならず、その扉にはそれぞれ重厚な錠が三重にかけられている。それを開くための鍵は赤子の祖父が持っていたが、永久に開ける理由はないと思われた。赤子は目が覚めるとそこに広がるただの暗闇を、きっとまだ見えていない目で見ながら手足をぎこちなく動かしていた。腹が減ったのだろうか、赤子はたった一度母親の母乳を吸ったきりである。親族はみな赤子がすぐに餓死し、やがて腐れて肉も骨も溶けて戸板に吸いこまれ、やがて戸板のシミになれはてるであろうと思い、それを望んだ。
五年たったころ、母親は毎晩あの赤子が出てくる夢に悩まされるようになった。親族たちは話し合い、あの赤子をちゃんと弔ってやろうと決まった。開かずの間となっていたその部屋は五年ぶりに開かれることになったのである。あの赤子の父と母、そして父方の祖父と祖母は意を決して向かった。それぞれの扉に付けられていた錠は油が切れていて、開けるのにしばらく時間がかかった。そうして一番最後の錠を開け終え、扉をほんの少し開いたところでみな驚いた。祖母は短い悲鳴を上げ、あわてて自分の口を両手でおさえていた。あの部屋から光が漏れたのである。
暗闇であるはずの部屋だったが、少し開いたそのスキ間からうすい金色の光があふれるように漏れてきたのだ。しばらく躊躇していたが、扉はひと思いに開け放たれ、その光の源が明らかになった。部屋の中央に一人の若い男が立っており、その男の全身が輝いていたのである。
「お久しぶりです、お父さん、お母さん。それにおじいさん、おばあさん」その男の言葉に父親は(そんなはずはない)といおうとしたが、その男の顔が自分の若いころに似ていることに気づいて言葉を飲んだ。
しばらく沈黙があるなか母親はショックのあまり気を失って倒れ、間もなく祖父がシャベルで男に殴りかかった。しかしそれが男に触れたかと思った瞬間、音もなくシャベルは粉々になり宙に消えてしまった。その男はまばたきすらせず、少し笑むような表情を見せ、「誰も私を止めることはできません」そういって壁へ向かって右手をかざした。途端に数枚の壁はちょうど人が通れるほどの穴があき、男は何も慌てる様子もなく外へと歩みを進めた。親族も無意識にゆっくりと男の後を追っていた。
外は雲ひとつない快晴だった。満五歳であるはずの男は、初めて見る外の世界をさほど驚くこともなく見回し、
「さあ、世界を作り変えましょう。今日が終わりの始まりです」そういって遠くに見える高層ビルに向けて右手をかざした。すぐにビルは上部から急速に粉塵と化し、風に吹かれるまま消えていった。中にいた人々もろともである。男はそうやって高い建物から順に、この世から?き消していくのだった。
この男のような魔神が世界中に現れ、みんな同時刻に事を始めたのだ。悪しき文明を崩壊させる聖なる行いは数日で終り、新しい時代が幕を明けたのである。