佳作「洗面所 出﨑哲弥」
「ねえ、あの広瀬って新人どう思う?」
女子トイレの洗面所で髪を整えながら景子が訊いた。
「どう思う、かぁ。まだひと月かそこらだからよく分からないんだけど、好きか嫌いかで言えば、嫌いね」
口紅を塗っていた手を一旦止めて静香は答えた。
「やっぱり静香もそう思う? ちょっと難ありよね、あの子」
「いまだに朝のあいさつ一つちゃんとできないんだもの。『おざまぁ~す』でしょ」
「わあ似てるー。私は『あざ~す』も聞いたわよ。ホントにこう言う人いるんだ、ってびっくりしちゃった」
「あれでもきちんとしてれば許せるんだけど、もう時間にルーズなのよ」
「遅れてきても悪びれたところが全然ないわよね」
「そして必ず言い訳」
「そうそう」景子は大きく何度もうなずいた。
「きっと教育の違いが関係あるのよ。だってあの子私たちが中学に上がった頃にようやく生まれてるんだから。え~一回り下かぁ」
静香は自分で言っておきながら驚いた表情になった。景子は仕方なく笑った。
口紅を塗り終えた静香は、唇を軽く内側に巻き込むようにしてから上目遣いに鏡を見た。
「あのメイクもいただけないわ」
静香は口紅をポーチに戻すと、きっぱり言った。
「チークでしょ?」
景子は鏡に顔を近づけてファンデーションを確認しながら言った。
「そう、まるで日の丸よ。サッカーのサポーターじゃあるまいし」
「あはは、すごいたとえねぇ。私はファッションの方が気になるけど……。フリルやリボンのついていない服持ってないのかしらね」
「ああいうのが可愛いと思ってるんでしょ」
「でもそのくせどれも胸元はけっこう開いてるデザインなのよ。完全に男の目を気にしてるタイプだわ」
「あー、これでもかってほど胸の大きさを強調してるわよね。いやらしい」
静香は眉をひそめた。それから思い出したように景子に向き直った。
「そうだ、景子あなた知ってる? あの子と
佐田さんが親しくなってるって噂よ」
「ええっ、本当?」
景子は目を大きく見開いた。
「最近のことみたいだけど」
「そりゃそうでしょ。まだひと月しか経ってないんだから。まさか。いつの間に……」
「あの子が来たばっかりの頃、私『分からないことがあったら何でも聞いてね』って言ってあげたのよ。そしたら『全然だいじょぶで~す』ってあっけらかんとしたものだったわ。それがね、佐田さんの前だと『あれぇ? わっかんな~い。どうしよ~』ってよく困り顔してたわよ。そしたら佐田さんニコニコしながら『どれどれ』って助けの手を。佐田さんも男ね。ああ見えて巨乳好きなのかも」
「やめて、佐田さんはそんな人じゃないわ。困った人を見て放っておけないだけよ」
景子は涙目で否定した。
「そうかしらねえ。二人で歩いているところを見たって人もいるらしいけど。っていうか、そもそも景子、佐田さんと何の進展もないでしょ?」
「そんなことないわよ、最近は佐田さんと好きな音楽の話することあるんだから。ついこの間もボブ・ディランのノーベル賞で盛り上がったわ」
「ボブ・ディラン? 景子そんなの聴いてたっけ」
「聴いたことないけど……」
「それで盛り上がった、って。どうやら勝ち目なしね」
「ひどいわ静香。あの子の味方するわけ?」
景子は身をよじってぽろぽろ涙をこぼした。
静香は困った表情を浮かべた。ハンカチを取り出すと景子にそっと渡した。
「味方なんてしないわよ。でもね、若さにかなうものはないわ。景子は違うかもしれないけど、私はここのところ衰えを感じることが多いの。あの子を見てると、あー私もあれくらい若かったら……って」
静香は涙声になっていた。景子は小さく何度もうなずくとハンカチを返した。
「メイク崩れちゃったわ。やり直しね」
涙を拭った静香が景子に呼びかけた。
そこにエプロン姿の中年女性が入ってきた。
「お二人ともやっぱりここでおしゃべりでしたか。そろそろお昼ご飯ですよ。遅れずに食堂へ行きましょうね」
「あら、もうそんな時間なのね」
静香と景子、二人の老女はそれぞれ杖を手に、洗面所を出て歩き出した。介護施設「悠々園」の廊下を、並んで、ゆっくりと。