佳作「煙の行き先 鶴田千草」
午前中の仕事を終えて事務所に戻った。デスクには相変わらず書類が山積みだ。隣の席の同僚が椅子にまたがって背もたれにひじをつき、部屋の奥を見ている。俺に気づくとその姿勢のまま椅子のキャスターを滑らせてきた。
「よう、お疲れ」
俺は大量の書類の下からぶ厚いファイルを引っぱり出しながら訊ねた。
「何かあったのか」
同僚はにやりと笑って奥を指す。
「ああ。例の新人がまた、さ」
俺は体を傾けて棚のあいだから覗いた。腕を組んだ課長の姿が目に入った。前に立つ若い社員を渋い顔で見上げている。
「余計なことはいい。言われた仕事をやれ」
どん、とデスクを叩く音が響く。
「おー。怖い怖い」
同僚はわざとらしく首をすくめた。
「ま、誰もが通った道だ。お前も俺も」
同僚が立ち上がって伸びをした。
「じゃ休憩、行ってくる」
同僚が事務所を出ていくのを見送り、再び奥に目をやるといつの間にか新人はいなくなっていて、課長がやれやれという顔でため息をついている。
上司にどやされた新人が頭を冷やしに行く場所といえば屋上と相場が決まっている。俺は課長に目配せして階段に向かった。
屋上で新人が手すりにもたれてうなだれている。その隣に並び、ポケットから煙草の箱とライターを出す。一本くわえて火をつけ、新人の前にも箱を差し出した。
「いえ、僕は」
新人はうつむいたまま首を振った。
俺は青い空に向かって煙を吐いた。のぼっていく煙を目で追う。仕事を一つ終えると煙草を一本吸う。何の味もしない。他の奴らも同じだそうで、どうやらそういうものらしい。
煙草一本を灰にすると、俺は言った。
「よし、行くぞ」
「え」
「俺の午後の仕事、手伝え」
俺はさっさと階段を降り、新人はあわててついてきた。
現場に向かう途中、新人はつぶやいた。
「この仕事って意味があるんでしょうか」
「さあ、な。ただ、誰かがやらなきゃならないってことは間違いないみたいだぞ」
「……でも」
ぼそりといったまま新人は黙ってしまった。
やがて着いた現場は病院の中庭だった。花壇やベンチがあり、看護師や家族に付き添われた入院患者が思い思いに散歩したり談笑したりしている。
一番大きな花壇の前に、ウサギのぬいぐるみを抱いた少女が座っていた。肩までのお下げ髪で白いパジャマに赤いカーディガンを着ている。
俺は新人に目で合図した。新人は息を飲み、小さく首を振る。その肩を強く押す。新人はなおも首を振った。俺は低い声で言った。
「あの子は逃げることができないのに、お前は逃げるのか」
新人は唇を噛みしめてしばらくうつむいていたが、やがて顔を上げた。花壇のほうへ歩いていく。少女の隣に立った。自分の右手をじっと見つめ、やがてそれをそろそろと上げる。すると気配を感じたのか、少女が振り向いた。びくっとして固まった新人を見上げる。そして問いかけた。
「ねえ、教えて。死ぬのって怖い?」
数十秒が過ぎた。新人は上げた右手を握ったり開いたりしながら、黙って少女を見下ろしているだけだ。やっぱり無理か。
俺が二人のほうへ足を踏み出そうとしたとき、新人の手が動いた。俺は足を止めた。新人は少女の肩に自分の右手をそっとのせた。少女の目を覗き込む。ぬいぐるみを抱いた少女の手に力がこもるのがわかった。
「怖くはないよ。ただほんの少し寂しいだけさ」
新人を見つめていた少女が微笑んだ。
「そう。ありがとう」
新人の顔はこちらからは見えなかった。
俺達が人間の肩に右手を置くとその死は確定される。ただ、俺達はそうと決められた人間に会って確認するだけだ。実際に決めるのは俺達ではない。だが人間達は俺達のことを死神と呼んでいるらしい。
新人が少女から離れて戻ってきた。俺は煙草の箱を差し出す。新人は少し震える指で一本抜いた。俺も一本くわえてライターで火をつけ、それから新人のにもつけてやる。紫の煙が二筋、立ちのぼった。目で追う。
「本当だ」
新人、いや新しい同僚が言った。
「何が」
「何の味もしない」
俺はふっと笑い、青い空を見上げた。