選外佳作「桜の小枝 矢野クニ彦」
花見の季節がやってきた。
独身で友達もいない男は、今年も一人で近くの公園に出かけた。
夕方近くで人もまばらだが、桜の花は花見客には関係なく、年に一度の晴れ姿を惜しげもなく魅せつけている。
男は公園の中の人気の少ない所へ歩み寄っては、周りに注意を払いながら、咲き誇る桜の枝に触る。まるで桜の枝の一つひとつに心を込めながら、何か言葉を投げかけるかのように。
そして何度も周りに人がいないことを確かめると、触っていた桜の小枝をポキリと折っては、手に持っていた大きめの紙袋にさりげなく放り込んだ。少し袋から小枝の頭が出ていたが、目立たないようにうまく手で覆ってその場を去った。
アパートに戻った男は袋から桜の小枝を取り出し、花瓶を用意してきては小枝を入れ、小さな机の上に置く。公園で見る桜もいいが、こうして室内の花瓶に咲く桜のなんと風情のあることか。男は満ち足りた気分でしばらく桜の小枝を眺め続けた。
やがて時が経ち、男は床につく。布団の中から眺めるのも悪くなかった。灯りを消すのに気が引けたが、次第に眠気も来て程よいところで灯りを消す。暗闇の中でも男の目にはわずかながら室内で咲く桜の小枝が見えているようだった。気持ちよく眠りに沈んでいく男。真横の机の上には花瓶に入った桜の小枝。夜は静かに更けゆき、少し男の寝息も聞こえてくる。そしてほんの微かな桜の花の香り。
さらに夜は更けゆき、花瓶がほんの少しだけ揺れた。
コト、コト、コト……。
その音はゆっくりながらも次第にはっきりと、人が起きていればわかるくらいの大きさに。
コト、コト、コト……。
それにしても、夜中に花瓶から音が聞こえてくるとは何事か。
ゴト、ゴト、ゴト……。
音はさらに大きくなってきた。併せて花瓶は少し動き出している。まるで生き物かのようにだ。花瓶が動いているのか、花瓶の中の桜の小枝が動いているのか。それとも、もしかしたら地震。
いや、動いているのはその花瓶だけだ。
男は花瓶の真横で寝ているのに、その音に気づかないでいる。一度寝たら気づかないたちなのか、普通なら何事かと目を覚ましてもおかしくない程の音の大きさなのに。
花瓶は大きく揺れて、机から落ちて割れてしまった。花瓶の水はその周辺に飛び散ってしまったというのに、男はまだ気づかずに眠り続けている。割れた花瓶の横には中に差していた桜の小枝が落ちているが、男が花瓶に差していた時よりも大きくなっていた。こんな短時間に、しかも折ってきた小枝が伸びる訳がない。
だが明らかに大きくなっている。
どちらかというと枝の先が伸びているというよりも、折ってきた部分から後ろに伸びているという感じだ。しかも気持ち悪いことに、その小枝は花瓶から放り出された後も少し小刻みに振動しながら、さらに枝の先とは反対の方向に伸び続けている。
先程から聞こえてくる音は、この伸び続けている生態が醸し出す音なのか。
ゴト、ゴト、ゴト……。
それにしても、布団に花瓶の水が飛び散り、小枝からは妙な音が聞こえてきているのに、男の気づかなさはどうしたことか。
小枝はさらに伸び続けている。
最初に男が折ってきた小枝に比べると、五、六倍にもなり、その伸び続けているスピードもさらに早くなっているようだ。枝はあろうことか、先端から逆の方に伸びながらも、また別の小枝も増殖させている。枝の伸びる様子を撮影したフィルムがあるとすれば、その逆回しの映像を見ているようだろう。
メキ、メキ、メキ……。
枝の伸び方はさらに加速してきた。
枝はいつの間にか幹の部分へと到達し、やっとそのタイミングで男は目を覚ましたが、何が何やら今の状況を把握できる訳もなし。もしかしたら真夜中に突然、熊でも現れたか、そんなことでも考えることができたら上出来だろう。
桜の幹ともなれば六畳一間の男の部屋で収容できるはずもない。
メキ、メキ、メキ……。
桜の巨大な幹に男は布団ごと壁にまで押しつけられて身動きもできない。まるで生きているような丸太の先にグイグイ押されて、壁との間に挟みつけられているような感じだ。押される圧力も相当なもので、段々と息苦しくなってきた。このままでいると窒息死するかもしれない。なんとか横に逃れようとしたが、しっかりと挟み付けられていて、それも無理だ。幹はさらに伸び続けようとしているのか、圧力が増してきた。
「誰か助けてくれ!」
男は力の限り叫んでみた。
その叫び声を聞きつけたアパートの住民がいたのだろう。にわかにアパート中が騒がしくなってきたが、六畳に横たわる桜の大木、枝や幹の発育と共に花の方も咲き誇り出していて、じつに艶やかだった。