佳作「桜の木の下で 白浜釘之」
「退屈だろう?」
私と同じく、桜の木の下にぼーっと立っている若者に声を掛けてみた。
今までは遠慮してなかなか声を掛けなかったのだが、これからの長丁場、お互いずっと無言で過ごすのも気づまりだと思ってのことだった。
「別に」
若者は言葉少なく答え、ポケットから取り出したスマートフォンをいじりだす。
……なるほど、たしかにあの『魔法の箱』があれば退屈することはなさそうだ。
私はなんとなくため息をついて、こちらもポケットから、しかしこちらは旧世代の悲しさ、読み古した文庫本を取りだしてページを繰る。
「……結構前からいますよね?」
若者が画面から目をあげずにたずねてくる。
「まあ、仕事だからね」
若者の言葉に若干の軽蔑が含まれているような気がするは気のせいだろうか。
「仕事! そっか、なるほど仕事ですよね、たしかに」
今度は明らかに軽蔑が含まれている声音で若者が頷いているのを見て、私は思わず、
「では君は何でここにいるのかね」
「罰ゲーム……っすかねえ」
若者は首を傾げてそう答えてから、
「でも、仕事だと思えば、なんか頑張れそうな気がしてきました」
と、画面から顔をあげてこちらを見た。
人懐っこい笑顔を浮かべた彼を、なんとなく好ましく思えた。
「もう花見の時期なんだねえ」
しばらく沈黙が続いた後、私は彼に言うでもなく、なんとなく呟いた。
「そうなんですね」
若者は画面から顔をあげて私の言葉に相槌を打つ。
気を良くした私は、
「私はもともと南国の出身でね。桜といえばもっと速い時期、三月ごろに咲く花で、だからどうしても卒業や別れのイメージのある花で、あまり好きになれなかったね」
と、若者に、あまり普段は話したことのない身の上話をした。
「そうですか。僕なんかはこの街の生まれだから、やっぱり花見はこの時期で、ちょうど新歓コンパなんか花見を兼ねてやってたから、桜は華やかなイメージがありますけどね」
「そんなものかね」
若者は私との会話の間に、何度も手元の機械に目を落としたが、私はあまり気にならなくなっていた。
「お、駅前に新しいラーメン屋ができたんだ……ってこの状況で食べに行けるわけないか」
若者は画面を見て、感嘆の声をあげる。
「ほう、どこかね?」
「駅前のデパートの向かいの、あの大きい駐車場の隣ですよ」
「駐車場?」
「ほら、前はボーリング場だった駐車場です」
「ああ、あの隣っていうと、本屋だった所か」
「本屋? 違いますよ、弁当屋だった所ですよ。たしかその前がゲーセンだったかな」
「そうそう、本屋がつぶれてゲームセンターになるっていうんで駅前商店街が反対したんだ。不良少年たちのたまり場になるんじゃないかって」
「ゲーセンが不良のたまり場って……いつの時代の話ですか」
「……もう駅前なんか、ずっと歩いたこともないからね」
私が最近の事情に疎いことを恥じ、小声でそう言い訳すると、
「でも、そういう昔の話って、俺嫌いじゃないっすよ。自分の生まれ育った街のことって、意外と知らなかったりしますからね」
若者は、先ほども見せた人懐っこい笑顔で、私を励ますように微笑みかける。
この若者とならうまくやっていけそうだ。
やがて、あたりが白み始めると、ブルーシートを小脇に抱えた人達が現れた。
「花見の場所取りっすかね。朝早くからご苦労なことで」
若者が皮肉っぽく呟く。
「わざわざ自動車の死亡事故が起きたこんな場所でやらなくてもいいだろうに」
「まったくだ」私も頷く。
「三十年前に首吊り自殺のあったこんな桜の木の下で花見もないだろう」
若者は私の方を見て、
「その話、今度じっくり聞かせてもらっていいっすか?」
そういって、自身の事故の原因だったスマートフォンから顔をあげ、人懐っこそうな笑みを浮かべた。やがて私たちは朝の光の中に溶けるように消えていく。再び闇が訪れるまでの、しばしの休息の時間だった。