選外佳作「予備 瀧なつ子」
ピンチは突然にやってくる。
本命大学の入試の日、早めに家を出たのにも関わらず、人身事故に見舞われて電車内に数十分閉じ込められた。
焦りに焦ったが、試験の開始時間には間に合い、ホッとして席に着いた。
が、受験の神様は俺に厳しい。
ペンケースを開けて、筆記用具を机に出そうとして大変なことに気がついた。
消しゴムがない!
瞬時に昨日の記憶がフラッシュバックする。
予備校の帰り際、ペンケースをぶちまけたのだ。あのときだ。あのとき、消しゴムを拾い忘れたに違いない。
どうしよう。今日の試験は論述もある。消しゴムなしで乗り切るなんで不可能だ。
どこかに買いに走る時間も、もうない。
この一年が無駄になる。そう思ったとき、後ろから声をかけられた。
「どうしました?」
振り返ると、艶やかなショートカットに紺色のブレザーがよく似合うかわいい女の子だった。
「あの、消しゴムを忘れてしまって」
「じゃあ、これどうぞ。予備にもっていたやつなんで」
そう言って彼女は、フィルムに包まれたままの真新しい消しゴムを貸してくれた。
「ありがとうございます!」
「いえ。がんばりましょう」
彼女は天使のような顔で、俺に微笑んだ。
なんて優しいんだ。なんてしっかりしているんだ。そして、なんてかわいいんだ。
俺の受かりたい理由に、彼女の存在が急遽加わり、ものすごい熱意で試験に取り組んだ。
その甲斐あって、見事合格を果たした。
彼女も受かっていますように。彼女も第一志望ですように。
入学まで、俺は日々祈った。
そして、オリエンテーションで彼女を見つけたときは、気持ちを抑えられずについ小走りに駆け寄った。
「入試のときはどうもありがとう」
「ああ、あのときの。一緒に合格できてよかったね。これからよろしく」
あのときと同じようにピュアな表情で微笑む彼女には、春らしいピンクのカーディガンもよく似合っていた。
彼女は雛奈子と名乗った。
雛奈子と俺は、あっという間に距離が縮まり、付き合い始めるまでにそう時間はかからなかった。
初めて会ったときと変わらずに、しっかりものの雛奈子。よく気のきく雛奈子。そして、幼い子のように微笑み、大人のように俺を支えてくれる雛奈子。
初めてできた彼女に、俺は毎日夢中だった。
やがて夏が近づき、雛奈子との遠出デートのためにバイトに励んでいたころ、学科の男友達が神妙な顔つきで俺にスマホを見せてきた。
「なあ、これ、雛奈子じゃない?」
表示された写真には、見覚えのある姿の女の子が知らない男と手をつないで写っていた。
絶句している俺に、友達は言った。
「昨日見たんだよ。お前、雛奈子と別れてないよな?」
別れてない。
この写真はなんだ。
雛奈子が毎日使っているカバン。バーゲンで買ったと見せてくれたワンピース。丸みのあるショートカット。何から何まで俺の知っている雛奈子が、俺の知らない男と指を絡ませている。
「なんなんだよこれ」
その日の夜、彼女を呼び出して問い詰めた。
友達に転送してもらった写真を見せると、雛奈子はさっと色を失い、細い指先を震わせた。
「だれなんだよこいつ」
「……高校の先輩」
消え入りそうな声で雛奈子が言う。
「なんで手つないでんだよ」
俺も手が震えてくる。手だけではない。声も、膝も。
長い長い沈黙のあと、俯いた雛奈子はそっと唇をうごかした。
「付き合ってて……。その、去年から」
「去年から……?去年からって、うそだろ。じゃあ、俺とはなんなんだよ!」
雛奈子は華奢な肩を縮めて、泣き出した。
ごめんね、ごめんね。不安だったの。
なんどもそれを繰り返す。
そしてその小さな唇からこぼれたことばに愕然とした。
だって、予備がいないと、不安だったの――。