選外佳作「ラディーアグミ アカツキサトシ」
部屋に閉じ籠っていた息子を連れ出したのはいいが、僕はまだタイミングを計りかねていた。義理の父子の距離。僕の妻、つまり息子の母親抜きでは中々に近くて遠い。
初夏の公園のベンチに二人並んで座る。
晴れ渡った空とは対照的な、息子の思い詰めた顔を見て心が痛む。半年前、この子は十歳にして母親を失ったのだ。僕は、もっとしっかりしなければならない。妻が死に、その上、息子に何かあったら救いが無い。
息子に気付かれないように深呼吸し、緑の芝生、青い空、白い雲、隣のベンチに目を移す。そのベンチには、熱心にスケッチする女学生が座っていた。
「人生は消しゴムを使わないスケッチのごとし」
ジャケットのポケットに入っている消しゴムには、ドイツ語でそう書かれている。
僕と妻を繋いだ消しゴム。
ポケットの中で、僕はその消しゴムを握り締めた。
「で、何を悩んでるの?」
話しかけると、息子は僕の顔を見た。
「ママの事?それとも、何か別の事?」
息子はまた、視線を落とす。
「もしかして、学校で何か、イジメとか?」
哲学者のような顔で俯いた息子を見て、早くも手詰まり感が漂う。
「何か、もっと悪い事?」
この子は一体何に悩んでるんだろう?と、必死に考えていたら「ヒントだけでも教えてくれないかな?」と、吐息の混じった言葉になっていた。情けなくて、僕も俯いてしまう。
「本当に知りたい?」
慌てて声のした方を向くと、息子が真っ直ぐに僕を見ていた。
「本当に、知りたい」
僕は息子の視線と同じくらいの強さで頷いた。
「助けられなくても?」
「うん、それでも知りたい」
知らなければ何も始まらない。
「分かった」
僕に彼が救えるのだろうか?
「僕、恋をしてるんだ」
「え?」
自分でも分かる、ひどく間の抜けた声だ。
「ママの事は悲しいけど、この片想いはママが死ぬ前からなんだ」
僕の笑顔に困惑と安堵が入り混じっているのが、誰の目にも明らかだろう。
「恋って、早過ぎない?」
「本気なんだ」
真っ直ぐな視線で僕を見る息子と、明らかに動揺している僕とでは、最早どちらが大人で、どちらが子供か分からない。
「そうか、分かった」と、僕はかろうじて大人の威厳を取り戻す。
「でも、聞いてホッとしたよ」
「なんで?」
「だって、もっと悪い事を想像してたから」
「片想いより、悪い事なんてあるの?」
「え?」
僕は妻と出会った頃を思い出した。彼女はすでにシングルマザーだったが、それ故に、近づけなかった自分がいる。
「そうだね。片想いは、辛い」
「クラスメートなのに、話すきっかけさえ分からないんだ」
俯いた息子の表情は、さっきより少し柔らかい。
「大丈夫」
「え?」
「ママと出会った頃の僕も、そうだったから」
首を傾げて見上げる息子に、僕は何度か頷いた。自分にも大丈夫と言い聞かせるように。
「あの頃、ママはカフェの店員で、僕はただのお客だった。それに比べたら状況は明るい」
「どうやって、ママと結婚したの?」
「これだよ」
僕は、ポケットから消しゴムを取り出した。
「これをタイミングを見計らって、彼女の前に落とすんだ」
息子の頭にハテナマークが浮かんでいるのが分かる。
「消しゴム?」
「拾って貰えたら、話すきっかけになる」
僕は消しゴムに書かれたドイツ語を指差す。
「なんて書いてるの?」
そう言った息子の表情は、妻に似ていた。
「きっと、彼女もそう言う」
君のママが、そう言ったように。
「拾ってもらえなきゃ、どうするんだよ」
「拾ってくれないような女の子を、君は好きになるのかい?」
僕は、書かれたドイツ語の意味を伝えながら、消しゴムを息子の手に握らせた。