佳作「小さな恋のメロディ 佐藤 清香」
工場のプレスの音が、規則的に耳のなかで響く。目覚めると、午後一時。中二の夏休みの初日は、騒音と頭痛から始まった。「おーい」水中にもぐった時のような、くぐもった声が聞こえる。カーテンを開けると、隣に住む幼なじみの春太がアイスを食べながら手を振っている。
私の部屋の隣が春太の部屋だ。家と家との間が密接している下町の住宅街。汚い水が流れる川の近くに私は十四年間住んでいる。頭をかきながら、窓を開ける。
「何?」
「お前、夏休みだからって、寝過ぎ。アイスもういらないから食う?」
食べかけのアイスを窓越しに渡してきた。
「いらない。また寝る」
私はわざと大きな音で窓を閉め、薄いピンクのカーテンを、さっと閉めた。布団にもぐり込み、クーラーの湿度を二度下げる。高原で暮らす夢の続きを見ようと、目を閉じた。
夏休みは、憂鬱だった。家にいると、母親は、数ヶ月前に出て行った兄の悪口を事あるごとに口にする。「親不孝、恥知らず」繰り返される言葉は、聞かないようにしていても私にずけずけと無断で入ってくる。兄が出て行ったのは、この家のせいだと言ってやりたかったが、無駄なのでやめる。
兄が出て行く前の晩、私の部屋へ来て兄は言った。
「先に出てくから。お前が出て行くとき、手伝うから連絡してくれ」
そんなことを真面目に言う兄が珍しく、恥ずかしくて私は頷くことしか出来なかった。
私は、夢を見る。空気の綺麗な高原で好きな人と暮らす夢。産業廃棄物の匂いとヒステリックな母と暮らす毎日は、私の「何か」を確実に壊していった。
好きな人の存在は、そんな私を救った。私の好きな人は、吹奏楽部のリーダーだった。先輩の奏でるトロンボーンの音色は、美しく際立っていて、私はその、絹のような音色に酔いしれ、先輩の動向を、いつも目で追った
「見てますなー」
幼なじみの春太は私をちゃかす。春太は、隣の家に住むアホな男子だ。もう少し格好よかったり、勉強ができたり、秀でたものがあれば、何かロマンスが生まれるのだろうが、今の春太をみる限り、何も起きそうにない。だが、春太は私のことが好きなようだ。
「俺しかいないと思うのよ。お前を幸せにできんの」
アホな奴だが、春太の家はうちと違って、穏やかで羨ましかった。小学生の時に、父親に殴られて、家から出された時、春太の家から、笑い声が聞こえてきた。この「差」は一体なんだろう。涙が、靴を濡らした。
先輩に告白をしようと思ったのは、こんな灰色の毎日に彩りが欲しかったからだった。もし、先輩と河川敷を歩けたら、彼岸の工場は、きっと、ディズニーランドになるのだ。
先輩に手紙を書いた。拙い文章だけど、言葉に花びらをひとつひとつ咲かせるように、丁寧に書いた。「もし、私に気持ちがあるのなら、明日、部室で待っていてください」そう結んで、先輩のロッカーに入れた。
その晩、私は眠れなかった。窓を開けると春太の部屋の灯りがついている。私は消しゴムをちぎって、窓に投げた。三回目で春太が顔を出す。
「何だー眠れんのか」
「うん。眠れん。あのさ、ちょっといい?」
「俺に告白か?」
「あほ。ちがうわ。ねぇ、なんで、春太は私が好きなの?」
その質問に、春太の目が泳いだ。明らかに動揺している。面白くて、私は笑う。
「そんなの、知らん。ただ、小学生の時、お前をうちの子にしようって思った」
「……同情?」
私は、窓をピシャリと閉めた。また、水中で聞くような、くぐもった春太の声が聞こえてきた。私は耳を塞いで、目を閉じた。
翌日、部活の練習が終わった後、私は、部室で先輩を待った。部室の窓からは、灰色の煙を吐き出している工場の煙突が見える。ふと、下を見ると、先輩が帰る姿が見えた。後ろから、さらさらと揺れる長い髪の女の人が先輩の自転車の後ろに乗った。それを見た私は、何も感じない自分に驚き、部室を出た。すると、廊下に春太が立っていた。
「先輩、同じクラスの人と付き合ってる」
春太は、いつも私の側にいる。側にいてアホなことを言うだけだ。私は、涙が出た。
「俺が大人になったら、お前を迎えに行く」
「かわいそうな家の子だからでしょ」
春太を睨んだ。
「知らん。知らんけど、そうしたい」
くしゃくしゃになった春太の顔が、西日に照らされていた。遠くで、野球部のかけ声が聞こえる。夏休みはまだ始まったばかりだった。