佳作「11200417 砂猫」
ふと時計を見ると午後一時を過ぎていた。職場に休むと電話をしてから四時間以上たったのだ。眠っていたわけでもないのに時が過ぎた感覚がない。ベッドから出て、いったんキッチンに向かいかけるがすぐ引き返す。食欲なんて全然なかった。
土曜の夜、あいつはここを出て行った。出て行けと言ったのはあたしだ。またあいつがあたしの財布から勝手にお金を持ち出したのだ。大した額ではなかったし、いつも後で返してはくれるのだが、あの時はなぜか許せなかった。積もった不満が一挙に爆発したのかもしれない。そして、叫んでしまった。出て行って。もう顔も見たくない。
つきあい始めて三年ちょっと。あたしの部屋にあいつが転がりこんできたのは二年前だ。二人では少し手狭な部屋だ。建築士試験に合格すれば給料がぐんと上がるから広い部屋に引っ越そう。あいつの言葉を信じたあたしが馬鹿だった。もう五年以上挑戦を続けているらしいがいまだに合格できないまま。いつも口先だけ。金使いは荒いし、酒飲みでキャバクラ好きで浮気症。よく三年ももったものだ。いずれにしろ、もう夜中にお酒を買いに行かなくてもいいし、男のくせに恋愛ドラマが好きなあいつにつきあわされることもなく好きな番組が見られる。せいせいしていいはずなのに、今の私は全身に泥がつまったみたいで、仕事すら行けない状態だ。なんで?
ため息をついて、ソファに腰を降ろす。ソファと壁の間の空間。あいつがいつも家の模型を作ったり、図面を引いたりしていた場所だ。おもちゃで遊ぶ子供みたいに真剣に。けれど、今は模型の残骸と書き損じの図面しか残っていない。結局残してくれたのはゴミだけか。捨てようとして、図面をつかんだら、まくれ上がった下に四角い何かが目にとまる。消しゴムだ。ブルーのケースに見覚えがあった。やっぱりそうだ。あたしが買ってきてあげたやつだ。つきあい始めてすぐだった。百貨店の製図用品売場で何気なく手にとってあたしは息を飲んだ。ケースに刻印された製造ナンバー。11200417。奇跡だった。あいつが「十一月二十日」、あたしが「四月十七日」。二人の誕生日と完全に一致していた。その神様のいたずらのおかげで、あたしはあいつを運命の人だと勘違いしてしまったのだ。建築士試験に受かって最初に引く図面で使うよ。あいつはうれしそうに笑った。それが、いまや、ゴミと一緒に転がっている。あれから三年たつのに、いまだに新品のままの消しゴムを残してあいつはいなくなった。まあ、あいつらしいか。無理に笑おうとしたが、急に腹がたってきて、消しゴムを玄関に向けて投げつけた。消しゴムはドアにぶつかって床に転がった。そのドアがいきなり開いた。「あれ? なんでいるんだよ。会社は?」
あいつだった。「なんでいるんだよって、こっちのセリフ」。言いながらも、ちょっと胸の奥が熱くなる。嘘でしょ。せいせいしているはずなのに。「忘れ物」。ぼそっとつぶやいて、あいつはソファの横から模型の断片の一つを取り出した。そして、部屋の鍵を差し出した。あたしが黙って受取ると、あいつもさすがに気まづいのか、「じゃあな」とあたしの眼も見ないで玄関に向かった。そして、靴をはきかけたところで、床から何かを拾いあげ、また戻って来た。「これも、返した方がいいよな」
あいつが差し出したのは、二人の誕生日が刻印された消しゴムだった。手を出そうとしたが、なぜか体が動かない。その上、何だろう。足が震えてきた。だめ、だめ、あたしの中で誰かがささやいている。受けとってはだめ、受けとれば、完全に終わってしまう。「結局、使えないままだったな」。あいつが笑ったとき、あたしの中で何かがはじけた。そして、気づけばソファの横の模型をでたらめにつかんで、あいつに投げつけていた。
「なんなのよ、他人が住む家のことばっかり必死で考えて! あたしたちの部屋は、一体いつになったら広くなるのよ!」。あたしは叫びながら落ちた模型を拾って投げつけ、拾っては投げた。あいつはよけもしないでじっとあたしを見つめていた。泣きそうな眼で。
「返すなんて許さない。あんたにあげたんだから責任持って使いなさいよ。さっさと合格すればすむ話でしょ!」。消しゴムをひったくってあいつの胸に叩きつけた瞬間、あいつは黙ってすごい力であたしを抱きしめた。薄っぺらだと思っていたあいつの胸はけっこう厚かった。何これ。あたしの苦手な恋愛ドラマじゃない。まあ、こういうのも、たまには、いいか。