佳作「初恋の思い出 風人」
これは僕の初恋の話だ。
彼女はよく消しゴムを落とす子だった。授業に集中している僕はそれに気づかず、いつも他の男子に先を越されていた。
彼女は可愛くて優しくて、僕のクラスのマドンナだった。
自分の部屋で消しゴムを掴む練習をした。彼女が落とした瞬間にキャッチするためだ。一人では難のある練習だったため、母親や姉に、時には父にも手伝ってもらった。僕は大人になるまでに、色々な努力をすることになるのだけど、後にも先にもこれほど頑張ったことはない。
授業中は彼女の座席を不審がられぬようにそっと覗いていた。教科書に穴を開けるのはちょっとばかし大変だったけれど、カモフラージュの性能はとても高かった。
聴覚と視覚を研ぎ澄ませ、消しゴムが落下するのを待つ。とても集中力を使う。
「先生、木村君が具合悪そうです」
不覚だった。僕は大量の汗をかいていた。
「木村、大丈夫か」
「ええ」
「具合が悪いのか」
「いいえ。少し暑いだけです」
「ならいいが。暖房を弱めるか」
「いいです。我慢します」
「それはよくない。弱めよう」
「いいえ。皆は寒いでしょうから」
「では、そのまま授業を続ける」
その日から毎日毎日汗をかくはめになった。彼女はなかなか消しゴムを落とさなかった。
「汗かき村!」
僕の新しいあだ名だ。学校中でこう呼ばれる。
僕は振り返った。
「お前、俺と同じだろ」
同じクラスの佐野君が立っていた。仁王立ちというやつだ。
「同じクラスだね」
「違うよ。消しゴムだよ」
僕の頭に閃光が走る。
「俺も、落としてくれるのを待っているんだ。負けないぜ」
佐野君も、だと。イケメンで運動もできて頭のいい佐野君と僕が張り合えるはずがない。きっと消しゴムも彼女の心も掴み取ってしまうのだろう。
僕は猛特訓をすることにした。
来る日も来る日も練習をした。フェイクのうまい姉の落とした消しゴムも、床に着く前に掴めるようになった。
そして、僕のあだ名が、
「サウナ」
に変わった日、消しゴムが落ちた。
その日はいつものように佐野君と彼女をマークしながらも、怪しまれぬように教科書を開いていた。
そして、ついにそれは起こる。今朝、母親が僕の茶碗を割ったときから、来そうな予感はしていた。
彼女の手から消しゴムが、ぽろっと零れた。
僕は椅子から飛び上がり必死に手を伸ばした。佐野君も飛び込んできた。世界がスローモーションになる。消しゴムが回る。
「消しゴム落としちゃった」
「拾ったよ!」
起き上がったのは僕だった。右手に消しゴムとわずかなほこりを持って。
「ありがとう」
彼女が笑う。この笑顔が見たかったのだ。
僕はそのあと、佐野君に、
「いい勝負だった」
と言った。
「いや。完敗だ。だって木村の席は彼女の席から一番遠いんだぜ」
「佐野君の席は、彼女の席の前じゃないか。音だけしか頼りにならない状況で、よくやったよ」
僕らはその日から友達になった。
それで結局、彼女と恋人になることはなかった。そこは小学生だ。初恋は叶わなかった。
今こうして思い出してみると、純粋に楽しそうだな、と思う。あの頃に戻りたいな。
三十歳独身で、いつも寂しい。誰もいない家に帰るのだから。
いい出会いがないものだろうか。
今日もこうして仕事に行く。電車に乗り、降り、会社を目指す。そしてまた、拾ってしまう。一瞬で、風の如く。
「財布、落としましたよ」
ほら、怖がっている。