第4回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 今様芝浜/ゆうぞう
第4回結果発表
課 題
老い
※応募数344編
選外佳作
「今様芝浜」
ゆうぞう
「今様芝浜」
ゆうぞう
「窓を閉めろ」
「帰る早々、何よ」
「いいから、窓を閉めるんだ」
金曜日の夜、夫は興奮して、バイトから帰って来た。
「当たったんだ!」
「何に?」
「宝くじだよ」
私の頬が微かに緩んだ。また、一万円かな? 相変わらずオーバーな人。
「一万円当たったの?」
夫は激しく首を振る。私は目を見開いた。
「ひょっとして五万円なの?」
夫はもっと激しく首を振り、胸を張った。
「驚くなよ! 一億だ!」
私はその瞬間、頭が真っ白になった。一億って、あの一億?
「ほら、見ろ!」
夫は宝くじを差し出す。私は、夫の見せたスマホの番号と照らし合わせた。
「当たってる! 信じられない! こんなこと、本当に起こるのね。おめでとう、あなた、今晩は祝杯ね」
「ああ、熱燗がいいな」
いつも通りの夕食だったが、一億円を想像するだけで、どんな豪華な晩餐よりも美味しかった。夫は珍しくお銚子をお代わりした。
「ねえ? 一億円、何に使う?」
「そうだな、まずは十年ぶりに海外旅行かな」
「無理よ。私もあなたも、もう七十代。あなたは変形性膝関節症だし、私は股関節が痛いし……。もう十年若かったらねー」
私の表情に、夫も現実に引き戻された。
「そうだな。他の使い道はと……。家のローンも完済してしまったしな」
「そうそう。リフォームも、あなたの退職金で六十代のうちにやってしまったものね」
夫は車庫の方に視線をやった。
「この際、ベンツに買い替えるか?」
「何言ってるの。私たちは歳だから軽でいいと言ったのは、あなたよ。私、大きいのは車庫入れが大変だから、絶対いや」
夫と私は、話しているうちに、一億円熱が急速に冷めていくのを感じた。二人とも年を取って、ほしいものがなくなってきたのだ。
夫は金融業界で定年まで働き、今は警備のアルバイトをしている。私は専業主婦の傍ら、近くのスーパーでパート勤めをしてきた。若いときに、一億円あったら、どんなにうれしかっただろう。
買いたかったものがいっぱいあった。ドレスも着物も宝石もほしかった。買えないからこそ、いっそうほしかったのだ。今は、そんなもの買っても、着て行くところがない。
旅行だって、行きたいところは、いくらでもあった。憧れのイタリアもスペインも、体の不安を抱える私たちの手の届かない、遠いところになってしまった。
「私たちには子どもも孫もいないし、一億円あっても使いようがないわね」
「ああ、そうだな。そうなると、貯金するしかないか。じゃあ、月曜日から、バイトに行くのをやめるよ」
「どうして?」
「だって、一億円あるんだから、もう働く必要はないだろ?」
「だめよ。体が続く限りは、働いた方が、体にも心にもいいのよ」
そう言うと、夫は少し不機嫌になった。
「少し横になる」
夫は酔って、ソファに寝転んだ。
このままではいけない。一億円をあてにしてバイトをやめたら、悪い結果になるに決まっている。何とかしなくちゃ。私は必死に考えた。
一時間ほどして、夫が目を覚ました。夫の頭がぼうっとしている今がチャンスだ。
「結論が出たの。見て!」
私は、宝くじをシュレッダーにかけた。
「な、何をするんだ!」
夫が止めようとしたが、遅かった。
「私たちは年を取って、一億円の使い道がないの。貯金しても、一億円をあてにして、浪費癖がついたり、働かなくなってしまい、生活が乱れ、健康を害したりするのよ、きっと。あなたの企業年金があるから、ぜいたくしなければ、やっていける。今のままで十分幸せなの。一億円当たったのは、夢だったのよ。それでいいじゃない。楽しかったんだから」
最初、烈火のごとく怒っていた夫も、だんだん落ち着いて、「仕方がない」と諦らめてくれた。
月曜日、夫は、いつも通りバイトに行った。
私は、パートに行く前に、自分の日記帳に挟んでおいた宝くじを、財布にしまった。
「シュレッダーにかけたのは、私が買った外れくじのやつよ。一億円の方は、今日換金して、私の口座に入れておくの。だって、男より女が長生きするから、一人になったときの老後資金がいるの。あなた、ありがとう」
(了)