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第19回「小説でもどうぞ」選外佳作 狙われた親指 Y助

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第19回結果発表
課 題

もの食う話

※応募数276編
選外佳作 
狙われた親指 Y助

 春さんが休みの日、揚々軒のラーメンは普通だ。決してまずいのではない。可もなく不可もなく、ごく普通の味だということ。
 でも、春さんが出勤していて、熱々のラーメンを、目の前まで運んできてくれる日のそれは格別に美味しくなる。

 初めて揚々軒を訪れた日。運ばれてきたラーメンに、春さんの親指がどっぷりと第一関節まで浸かっているのを見て絶句した。
 しかし、悪びれもせず、一生懸命仕事に励むその老婆を前に嫌な顔もできず、渋々と一口すすってみた。
 と……、たちまち僕は、その醬油ラーメンの虜になってしまった。何の変哲もない普通のラーメンだが、信じられないほど美味しかったのだ。
 その旨みの秘密は、スープに浸かる春さんの親指にあるというのが、揚々軒の伝説となっていた。
 まさか……。まさかそんな言い古された冗談のようなこと、あるはずがない。きっと何か、裏があるのだ。そう思った僕は、次の日から揚々軒に通い、その秘密を探ることにした。
 厨房前のカウンターに座り、出汁の取り方、かえしの作り方などを聞いてみた。しかし、特別なこだわりは何もないという。
 さらに、調理に使う具材や調味料を調べてみると、本当になんの秘密もない普通のラーメンなのだという結論にたどり着いた。
 もう疑う余地はない。伝説どおり、揚々軒の味の秘密は春さんの親指にあると見て間違いなさそうだ。

 ある日のこと。いつものように注文した醬油ラーメンを、見覚えのない中年女性が、スープに親指を浸すこともなく運んできた。
 不本意に思い、見回すと、店内に春さんの姿がない。もしかしてお休みだろうか。気になり尋ねると、春さんは退職するかもしれない、との答えが返ってきた。 階段を踏み外し、足を痛めたのだとか。加えて御年七十二歳を迎え、体力も気力も萎えてしまったと落ち込んでいるらしい。
 ということは……。春さんの親指が浸かった、あの美味しいラーメンはもう二度と食べられないのだろうか。そんなの、嫌だ。僕は毎日でもあの味を楽しみたい。もう完全に中毒になっているのだから。
 それには、元気になって、春さんに帰ってきてもらうしかない。僕は春さんの回復を心から祈った。
 次の日からは、僅かな希望を胸に揚々軒に通った。そして、春さんの不在を確かめると、がっくりと肩を落とし、それでも普通のラーメンを胃袋に流し込み、帰宅した。

 春さんの親指が狙われている。高値で買いつけ、切り取って、あの味を独り占めしようとしているやつがいる。
 しばらくすると、そんな聞き捨てならない噂が、揚々軒の周りで流れ始めた。
 春さんだって、生きて行くためにはお金が必要だ。年金だけでやっていけるほどの余裕はないと、口癖のように言っていた。もし、親指が高値で売れると知ったなら……。
 質の悪い噂だと思いたかった。しかし、たかがラーメン、されどラーメン。もう一度、あの味を口にできるなら、それくらい、やるやつがいたって不思議ではない。
 僕だって、できることなら……。でもそれは決して許される行為ではない。
 なんとか、そんなことにならずにすむいい方法はないだろうか。僕は春さんの身を、そして、なによりも親指を案じ続けた。
 そして、ついに……。笑顔を浮かべる、春さんが、揚々軒に帰ってきた。

 狂ったように喜んだ僕は、さっそく、ラーメンを注文した。待つこと数分。熱々の醬油ラーメンができあがった。
 でも、なぜかカウンターのすみで、座ったままの春さん。いつものようにはそれを運ぼうとしない。
 どうしたんだろう?
 得体の知れない不安が、胸をよぎった。
 しかし、僕はすぐに、安堵の溜め息をつくことができた。 どうやら春さんは、揚々軒の片隅で新しい商売を始めたようだ。なるほど、こんな仕事なら、年老いた体に負担もなく、小遣い稼ぎもできそうだ。
 春さんが胸の前に掲げた一枚の画用紙。そこには達者な文字でこう書いてある。
〈指、浸します。親指・百円。中指・七十円。小指・五十円。……どうぞ、お気軽に〉
 僕は迷うことなく百円を支払い、春さんの親指の浸かったラーメンに無我夢中で喰らいついた。
(了)