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第5回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 首だけのキリン/阿南改

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第5回結果発表
課 題

魔法

※応募数250編
「首だけのキリン」
阿南改

 流しの掃除に使っていた歯ブラシを、そのまま流れで口に突っ込んでしまったとき、彼女はそろそろ限界だと悟った。
「私、疲れてるなぁ」
 ここ半年ほど、月の残業が四十五時間を超え続けているのが原因だろう。しかし仕事を変える訳にはいかない。孤独な彼女にとって、仕事は唯一の生きがいであり、誇りであった。
 洗剤臭い唾を吐き出した彼女は、枯れるまま放置してあった一輪挿しを掃除することにした。いつか近所のフリマで買った地味な一輪挿しを歯ブラシでごしごし洗っていると、急に紫色の煙がモクモクと立ち上り、口からキリンの首が生えてきた。
「うわ、キリンだっ」
「キリンだな。しかしただのキリンではない」
 いわく、首だけのキリンは神聖な存在であり、呼び出した者の願いを三つ叶える使命を帯びているらしい。彼女は渡りに船と、喫緊の悩みをキリンに話した。
「仕事を楽にしてほしい。転職はしたくないから、それ以外の方法で」
「例えばどうやって?」
「上司をもっと良い人に代えるとか。今の人はパワハラ気質で、やや無能が過ぎる」
「あいわかった」
 キリンは長い舌を器用に震わせて、『ジュジュ』なる怪しげな呪文を唱えた。
「これでよろしい。君の願いは叶えられた」
「なんだかわからないけど、ありがとう」
 彼女はせめてものお礼にと、持っていた歯ブラシでキリンの歯を磨いてやった。

 翌日、彼女が会社へ行ってみると、本当に上司が代わっていた。新しい上司は人柄もよく、理不尽に業務を振られることはなさそうである。そう安堵した彼女だったが、しばらく経っても仕事は全く楽にならなかった。
「ごめんね。ウチはそういう会社だから」
 そう上司に言われて初めて、彼女は自分の勤める会社がブラック企業だと知った。
 彼女が一つ目の願いは無駄だったと伝えると、キリンは歯をむき出しにして唸った。
「やはり仕事を変えるしかあるまい。いよいよ顔色が悪いぞ」
「でも、転職は嫌なんだよね」
「じゃあどうする気だ」
「今度は私を疲れない身体にしてほしい。疲れなければ、いくらでも仕事ができる」
「あいわかった。難しそうだがやってみよう」
 キリンは一つ目のときより複雑な『ジュジュ』を節をつけて唱え、最後に彼女の顔を長い舌で舐めまわした。する彼女は、ここしばらく身体を支配していた倦怠が瞬く間に消えていくのを感じた。
「効いてるっぽい」
「それはよかった」
 彼女がまたお礼に歯を磨いてやると、キリンは気持ちよさそうにため息をついた。
 そして、彼女の記憶はここで途切れる。

 次に目を覚ましたとき、彼女は入院していた。医者から、過労で昏倒こんとうしたのだと伝えられた。数週間の記憶がないのはそのせいらしい。
 彼女のベッドの枕元には、あの一輪挿しに花が活けてあって、その横からキリンが窮屈そうに首を伸ばしていた。
「目を覚ましたか」
 キリンは彼女が倒れた経緯を話してくれた。なんでも、キリンは疲労を感じる機能を消しただけで、疲労そのものは変わらず溜まっており、そうと知らずに働き続けた彼女はついに限界を超えてしまったんだとか。
「首だけの私は『ジュジュ』も半端なんだ」
 キリンは弱々しく頭を垂れた。
「なら身体と脚が生えたら、もっと凄いことができるの?」
「いやむしろ逆だな。何もできない、ただのキリンになる」
 そう言いつつ懐かしそうに目を細めるキリンは、どうやらただのキリンになりたいらしいと、彼女は直感した。
「最後のお願いをしてもいい?」
「もちろん」
「じゃあ、貴方に身体と脚が生えますように」
 キリンは少し驚いた様子だったが、
「あいわかった」
 と頷き、『ジュジュ』を短く唱えた。そして首だけのキリンは、身体と脚のあるただのキリンになった。
「気分はどう?」
「なかなか悪くない」
 そして、寝たきりで特にすることのない彼女は、キリンと他愛もない話をたくさんした。
「どうして転職しないんだ?」
「私には今の仕事しかないから」
「そんなことはないと思う」
「そうかもしれないね」
 伸び伸びとしたキリンの体躯を眺めながら、彼女は転職をしてみてもいいかなぁと思った。
(了)