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今年こそはという気になる! 公募に効く魔法の言葉2

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歴代公募ガイドの誌面を飾った、偉大なる作家たちの名言とアドバイス

修行編

テレビがまだ一般的じゃない時代だったので、連日連夜ラジオドラマが流れていた。
これが生きた教材になった。一年間に古今東西の戯曲を七百冊読んだりもした。(中略)
人間、自分の力を自分で判断するのは難しいものだ。やはり、投稿という行為での判定を待つしかない。
といって、助走(自習)の期間は持たなくてはいけない。ただ、思いつきで書いて出したならいいというものでは決してない。

藤本義一 1985年3月発行VOL.2掲載

教室の仲間の多くは映画マニアであり、それだけに講師の言うことを疑問視する人も少なくない。
(中略)彼らが次の授業でどんな「感性の世界」を展開してくれるのかと、私は期待する。と、これが宿題さえ書いてこない。手ぶらで授業に来て、授業終了後にまたもお酒と議論である。(中略)
プロになるための訓練は、だいたいが面白くないものである。画家のデッサンも、力士の股割りも、脚本家の習作も、面白くはないが、型通りにやらないことにはプロになれないことも事実である。

内館牧子 1994 年2 月号掲載

名訳の筆写で私の翻訳がうまくなったかどうかはわからない。勉強になったことは確かである。この作業は楽しかった。私が難解だと思っていた部分を翻訳の名人たちは苦もなくさらりと訳していた。(中略)
翻訳がうまくなるコツの一つは、他人の名訳を盗むことだと思う。他人の翻訳を批判するのはじつに簡単なことだ。批判していたのでは、翻訳はうまくならない。

常盤新平 1993年4月号掲載

研鑽編

大学を卒業し、サラリーマン生活にはいった約十年間。昼間はデスクワーク、夜はコンピュータ、そのあいだを縫って、文学の翻訳や評論を書くという生活だったから、削れるのは睡眠時間だけだった。結局のところ、いろいろさし引いて残った睡眠時間は、二十代を通じて、一日三時間ほどであったと記憶する。高度成長期の時代の話である。
当然、日々の生活は、大峯山の回行もかくやと思われるほどの難行苦行だった。毎晩ぼくは、あしたこそ辞表を叩きつけるぞと決意したものだ。(中略)
修業時代の生き方には二つのパターンがある。これと決めた道ひと筋につきすすむ場合と、道草を食いながら大迂回する場合と。(中略)人生は長い。体力と気力さえあれば、ぼくは二度めの人生でも、この大迂回作戦に従いたいと思う。
ただし、ひとつだけ注意を。こういう難行苦行に耐えるには、欠かせないものがある。それは、どうにでもなれという開き直りだ。開き直れば、自分も知らなかった力がでる。

荒俣宏 1994年10月号掲載

長谷川先生の門下には著名な作家が多く、月々の勉強会も熱心だったが、ある日のこと、
 「まだまだ生ぬるい。もっと罵りあい、つかみかかるほどの厳しい批評をし合おうじゃないか」
と同門の新田次郎が私に言った。よかろう、と私は賛成し池波正太郎、井手雅人らと『炎の会』というのを組織し、毎月一度那須山中にある宿に泊まり込んで研鑚会をした。
炎が燃え上がるほどに激しい研鑚をしようというのだったが、このことは私らの実力付けには大いに役立ったと思う。

戸川幸夫 1993年1月号掲載

書き方を学ぶばかりが文学修業ではないだろう。もっと根本に、ものの見方、考え方、感受性、判断力の訓練といったことがありそうだし、それをさらにつづめて言えばいかに生きるかを学ぶこと自体が文学修業だということになるかもしれない。
(中略)しまいには相手の無知への嘲笑が文学的能力の否定といった話にさえなった。
あるときなぞわたしの書いた初めての小説「大いなる市にて」について橋本一明が渋谷宮益坂の喫茶店で猛烈な作品評を始め、午後いっぱいかけていかにそれがダメな小説であるかを証明してみせたことさえあった。
こういう青春の容赦ない付き合いは、人を傷つけると同時に発奮もさせる。無知を嗤われれば嗤われぬために勉強するし、文章の読み方も鋭くなる。議論の仕方も覚える。
何が自分の得意の分野で、何が不得意かも知る。つまり優秀な他者と同じ桶の中で芋を洗うように揉み合ううち、自分とは何者かということをだんだんに知るようになったのであった。

中野孝次 1995 年7 月号掲載

 

※本記事は「公募ガイド2012年2月号」の記事を再掲載したものです。

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