第29回「小説でもどうぞ」佳作 傘を忘れる男 world is snow
第29回結果発表
課 題
癖
※応募数288編
傘を忘れる男
world is snow
world is snow
その男は今日も、雨の中をずぶ濡れになりながら帰路についた。
男は惨めな気持ちを踏みしめるように水たまりを跳ね上げ、わずかばかりの抵抗として目の上に置いた右手を雨除けにしながら、かれこれ十数分、この土砂降りの中を傘もささずに歩き続けていた。
彼は自らの意思で傘をささないと決めたわけではない。というのも、この男には困った癖がある。外出先に傘を持っていくと、毎回それをどこかに置き忘れてしまうのだ。
彼は実際、驚異の頻度で継続的に傘を紛失していた。そのことは、彼の家計簿に「傘代」という欄が毎月自作されていることからも伺い知ることができる。
もちろん、彼とて無抵抗でこの癖に甘んじているわけではない。手に油性ペンで「傘」とメモしてみたり、スマホにリマインダーをかけてみたりといったことは、当然試してみた。しかしそれらのありがちな努力は、当然のように効果を発揮しなかった。
また少し前には、百均で調達した大きな黄色いリボンを、恥を忍んで傘に接着剤でくっつけてもみた。傘立ての中で目立つように装飾しておけば、帰りがけの自分がその傘に気がつくかもしれないと思ったのだ。もちろん、そんなことは起こらなかった。今もリボン付きの黒い傘はこの街のどこかで、主人に置いて行かれた恨み言を呟いているだろう。
男はお決まりのように今日も雨に濡れている自分が、情けなくて仕方がなかった。できることなら雨に溶けて消えてしまいたいと、彼は無意味な妄想を繰り広げた。
そうして歩いていると、彼はコンビニの前に差し掛かった。傘をなくしたときに、よく世話になる店だった。彼は一瞬ためらったあと、そのコンビニの軒下に入った。
スマホを立ち上げて天気予報を確認すると、この土砂降りは通り雨で、もう半時間ほどで晴れるらしい。男は今月の傘代がすでにかさんでいたこともあって、ここで雨が止むのを待つことにした。
雨宿りの間も、この男の自責の念は収まらなかった。移動の際に必ず傘立てを確認する。こんな簡単なことが、なぜできないのか。こんなに傘を忘れるなんて、自分は車に跳ね上げられる泥水以下の最低な人間だ。傘を忘れた程度で大袈裟だと思われるかもしれない。しかし彼は本気でそう考えていた。
そのとき、先ほど歩いてきたコンビニ前の歩道を、一人の女が通りかかった。男の視線は、その女がさしている傘に釘付けになった。彼女の傘は男物で、しかも黄色い大きなリボンが付いていたのである。あれは間違いなく、先日男がつけたリボンだった。あの傘は男に忘れられたあと、別の人間に拾われてその余生を送っていたのだ。
「少なくとも、いつかの俺が傘を忘れたおかげで、今日あの女は濡れ鼠にならずに済んでいるというわけだ」
雨宿り中の男は、そう口端をつり上げた。
さっきまで泥水以下になろうとしていた男は、少しばかり人間としての誇りを取り戻していた。男を苦しめていた無益な自責の糸が、黄色いリボンによってプツンと千切れたようだった。
じき雨も上がり、彼は軒下を出て歩いていった。
さて、また後日のことである。その日の朝、天気予報が午後から雨だと告げたので、男はまた傘を持ち出す羽目になった。彼は外出前に、赤い大きなリボンを傘に接着した。効果がないことは黄色いリボンで実証済みだが、何もしないよりはマシだと思ったのである。
しかし誰もが予想した通り、夕方ごろには、男はまた傘をどこかに置き忘れ、大雨の中を無防備に歩いていた。彼は先日と同じコンビニの軒下に雨宿りに入った。
店の入り口前の傘立てには、黒くて上品な男物の傘が一本ささっていた。もちろんリボンなどと野暮なものはついていない。店内に目をやると、その傘の持ち主と思われる身なりの良い男が雑誌棚を物色していた。
傘を忘れた男は、まるで親でも殺されたかのように店内の男を睨みつけた。今の彼には、傘を置き忘れる癖のない全人類が憎かった。
男は濡れた手でスマホを開き、天気予報を確認した。運の悪いことに今日の雨雲は、翌日までこの地域に滞在するつもりらしかった。
彼はスマホをポケットに突っ込んで、降りしきる雨を眺めた。翌日まで雨宿りを決め込むわけにもいかない。彼はこの土砂降りを突っ切る覚悟を決めた。それもこれも、傘を忘れるという情けない癖を直せない自分が悪いのだ。男は自傷的に自分自身を奮い立たせた。
そのとき、歩道に一人の女が歩いてきた。それは先日、黄色いリボン付きの傘をさしていたあの女にほかならなかった。雨宿りをする男は、またしても彼女の黒い傘に釘付けになった。なんとその傘には、赤い大きなリボンが付いていたのである。
あれは間違いなく、男が今朝つけたばかりのリボンだった。
黄色いリボンのときとは打って変わって、男はその女に激しい怒りを感じた。
「あの女、俺の傘を盗みやがったな」
男は歯が砕けそうなほど歯軋りしたが、そんな彼には目もくれず、女は赤いリボンと共にすたすたと歩み去っていく。
男は急激に、傘のことで思い悩んでいる自分がバカらしくなった。
彼の中で切れてはいけない糸が一本、プツンと千切れる音がした。
彼はサッと店内に視線を走らせ、身なりの良い男がまだ雑誌の立ち読みに夢中になっているのを確認すると、素早く傘立てから傘を抜き取った。
男はそれをぱさりと開くと、雨の中へと歩み出し、悠々とその場を後にした。
(了)