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第29回「小説でもどうぞ」佳作 傷心のマンステール・オ・レ・クリュ ひのき湯柚子

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小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第29回結果発表
課 題

※応募数288編
  傷心のマンステール・オ・レ・クリュ 
ひのき湯柚子

 今朝は冷えるわ。バスローブの前を掻き合わせても、すうっと肌が凍るよう。週末なのにこの曇天。朝靄が、気怠い一日の始まりを湿気らせる。
 寝不足は肌がくすむわね。空腹が落ち着いたら、しっとり化粧でもいたしましょう。かのクリスチャン・ディオールが言っていた、女性の最も美しいメイクは情熱だ、と。イヴ・サン=ローランだったかも、とにかく誰かが言っていた。昨夜のわたしの情熱は失われつつあるけれど、彼を恨むことはしたくない。この切なさが、わたしを儚げに、もっと美しくするはず。そうだわ、口紅だけは纏いましょう。たしか昨夜のはずみで冷蔵庫の隙間に転がってったはず、あったあった、ビーアイドルのむっちリップ02番「不意打ちレッド」。ホコリをつまんで吹き飛ばす。蓋を外すからっという音が、わたしを女にしてくれる。在庫整理で税込み770円だったのに、この塗り心地、この発色。皮剥けもなし、コスパ良し。蓋を閉める、かちっという力強い音。いつもならば戦闘開始の合図、わたしを女豹にするのに。いや、いいのよ。落ち着きなさい。
 さて、気を取り直して。
 朝はキッチンが一番輝く時間。壁には、ファン・ゴッホの「夜のカフェテラス」がさりげなく飾られている。そう、まるで何かの伏線のように。複製だけどね。先ほどスイッチを入れたエスプレッソマシンが、けたたましく豆を挽いている。冷蔵庫から、先週末デパ地下で買ったウォッシュチーズを取り出し、オレンジ色にぬらつく肌にそっとナイフを挿し込んだ途端、つんとした匂いが鼻腔を突き刺す。丸一日一生懸命働かれた殿方の、その足指の隙間から立ち昇るような生命のにおい。それが部屋に充満するにつれ、わたしのこころも解きほぐされていくようだわ。この、癖になる、かほり。本場アルザス産の(そう、おフランスからの特選正規輸入品が、賞味期限間近でなんと半額)マンステール・オ・レ・クリュ。俺、来る? なんて、お洒落な語感とは裏腹に、強烈な芳香を放つ曲者よ。でもね、こんなチーズ界の異端児も、ひとかけつまんでお口に運べば、ほうら、とろおりクリーミー……うおえっ、くっさ、くっせ、まじでくせっ。……ふう、名馬に癖あり、こういう、一癖も二癖もあるようなのが好きなのよ。シンプルゆえに滋味深く、ゲテモノのようで旨みは最高。着飾らない、素材のままの美、そして価値。だめね、わたしって、すぐに男を堕落させちゃうの。この指のぬめりとニオイ、昨夜の彼にも教えたかった、しばらくは残っているでしょう。
 ねえ、それにしたって、彼はいったいどこへ出かけてしまったの。まだまだ続きがあったのに。急に夜中に出ていって、まだ戻ってこないんだもの。ええ「お茶だけでも」とは言ったわよ、だからってワインに手もつけないなんて。酒癖の悪い男よりましだけれど、変わった男だったわね。ああ、戻らないなら、いっそ剥製にでもすればよかった。ううん、今さら言ったって。そうだ、今夜は白髪でも染めようかしら。もう何年も結っていない、腰までの長い髪。結ったら癖がつくものね。そうよ、気分を明るく、ワイン色に染めましょう。あれこれ考えていても仕方ない。
 さあ、まずは掃除でもいたしましょう。いつぶりかしら、気づけば床が髪の毛だらけ、知らずしらず日々蓄積していくものたち。
 そういえば、彼は髪も素敵だったわ。つやつやして、でも芯があって。探せば一本くらい落ちているかも。癖っ毛の男って悪くないのよ。惹かれたの、ひと様の家の玄関扉を蹴り開け出ていく、あの足癖の悪さにも。男の人って強引ね、無理に引っ張るもんだから、おろしたての真っ赤なワンピースに癖がついてる。悪い男ね、彼のためなら、艶めいて鳴いてあげたのに。青かったんだわ、冗談混じりのチラリズムで、そう、文字通り真っ青になって。白の総レースのおブラジャーと、お揃いのティーバック。結局男は、こういう癖のないのが好きなのよ。そんなつもりじゃ、なんて、慌てた顔が可愛かった。そう、どんなことにも難癖つけたい時期なのよ。
 わたしにもそんな時期があったわ。わたしだけの幸せを、全身全霊で探してた。「悪性リンパ腫をも治す恋の力」「目指せシンデレラ婚! 医学生の見分け方百選」「隠せ、なくせ、幾千の角栓。美肌を覚醒させる方法」。でも、苦節ウン十年、悟ったの、他力本願では幸せになれない。最近のお気に入りは、「北極星の歩き方」。そう、わたしは自分の足でこの人生を歩くのよ。世界を見なきゃ、宇宙を見なきゃ。教養は美。「国選弁護人には託せぬ救世」「即戦力! エクセルで、アクセル抑制大作戦」「木製の特製連絡船で北西の惑星へ、語り尽くせぬ苦戦を肉声で(CD付き)」なんかも、悪くなかったわね。
 あらやだ、掃除をしようと思っていたのに。つい癖で、思索に耽ってしまったわ。聡明な女は、罪深い。
 なくて七癖、あって四十八癖、なんていうけれど、わたしはね、百の癖でも愛してあげたい。それがわたしの、唯一の癖。ディオール(もしくは、イヴ・サン=ローラン)がいうように、「女性が着られる最も美しい服は、彼女が愛する人の腕」なのだから。
 ああいやよ、置き手紙もない男。手癖の悪い男。
 わたしに焦がれていた癖に。
(了)