第30回「小説でもどうぞ」佳作 トリックスターの楽しみ 川瀬えいみ
第30回結果発表
課 題
トリック
※応募数237編
トリックスターの楽しみ
川瀬えいみ
川瀬えいみ
私をトリックスターだという人はいないでしょう。トリックスターというのは、善悪を超越したところにいて、ストーリーを進行させる存在。悪意のないいたずら小僧、トラブルメーカー。他人の気持ちを
その点、私は善人以外の何物でもない。善悪を区別することができ、その上で善のみを為す正義の主人公。神の存在を信じ、人を陥れるようなことはしない。人の悪口や愚痴、呪いの言葉を口にしたこともない。誰に対しても優しく親切、清廉潔白。しかも若く美しく、清純な乙女。言うまでもなく未婚で処女。
私のこの優れた特性を際立たせるために、神は私に極めて効果的な運命を課してくれた。神は、ある日突然、私を世界で最も深く愛してくれていた優しく善良な母の命を奪ったの。寡夫になった父は、それから半年経たないうちに、心根が美しいとは言い難い女性と再婚した。その後の展開は、お約束通り。
継母は、私の美貌と善良を
継母の操り人形に成り下がった父は、継母の性悪に気付かないぼんくら振りを発揮しだした。あれには、我が父ながら、情けなくて
実際に私の生活を不幸な日々の連続にした、いわゆる実行犯は継母なのだけれど、その元凶は神様で、地上世界における諸悪の根源は私の父。私はよく、自分自身を、三角形の中に閉じ込められたプロビデンスの目に重ねたものよ。
だからといって、お父様を『この色惚け親父、さっさとくたばりやがれ!』なんて口汚く罵るようなことは、私は決してしないわよ。もちろん、態度や表情に出すようなこともしない。
だって、お気の毒なお父様には悪意がない。彼はただ、観察眼を持たず、洞察力が欠如していて、想像力が貧困なだけ。現実を見ようとしないだけ、見えていないだけなのだから。
とはいえ、悪気でいっぱいの悪党より、悪意のない愚者の方が質が悪いのは事実よね。その被害も甚大で、被害者が感じる苛立ちが、前者に向かうものよりも後者に向かうものの方が大きいことも、否定し難い事実。善良なおばかさんの実父に比べたら、悪意敵意害意満載の継母の方が、ずっとましというものよ。
私は、継母の前では、いじめに苦しみ、反抗する力もない弱者を装っているだけでよかったもの。時々、瞳に涙を浮かべてみたり、物陰に隠れて(でも継母の目に留まるように)よよよと泣き崩れてみたりもした。それで機嫌をよくしてくれる素直な継母を、私は好ましく思ったわ。
私は、父より継母の方が邪悪なことを理解していたけれど、父より継母の方が好きだった。この気持ちに嘘はない。
私の美貌と清純に惚れ込んだ王子が、私にいいところを見せようとして(この“いいところ”というのは、結局は、彼が父祖から受け継いだ権力にすぎないのだけれど)、継母を罰しようとした時には、「そんなことはなさらないで。お母様はきっと、私と王子様が必ず出会い結ばれるよう、わざとあんなふうに振る舞ってくださっていたのですわ」という謎の超理論を展開して
継母より愚かな父は、仕置きする価値もないので、私の新居となった王宮に豪勢な部屋を用意して、そこに住めるよう手配してさしあげたわ。三食昼寝つきの生活(三食に昼寝しかついていない拘留状態)を大層喜んでいるそうだから、私は孝行娘なんでしょう。
私の名前? シンデレラでも、スノーホワイトでも、好きに呼んでくださって結構よ。
私は生きている間、悪事に分類される行為とは完全に無縁でいる。誰も傷付けず、苦しめない。誰の悪口も言わない。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰――いかなる罪も犯さない。敬虔な神の信徒であり続ける。
でも、心の中は、地獄の最下層にあるという陽光を知らない氷地獄のように冷え切っているの。私は誰も愛していないし、誰も信じていない。神以外は。
私は、世界の終焉後に行われるという最後の審判が楽しみでならないの。私は天国行きか、それとも地獄落ちなのか。真の心を一瞬たりとも言動にしなかった私に、神はどういう審判を下すのか。
私の人生における唯一の楽しみが最後の審判になったのは、愛情深く善良な実母が死んだ時だった。あの時、幼い私の中に、神の意思を疑う気持ちが湧いてきたの。神の存在、神の真意を確かめたいという気持ちが。
あの時、私は、神を試すための遠大なはかりごとを始めたの。密やかな企み、ささやかなトリックを。
もし私が神を騙しおおせて天国に行くことになったなら、私の勝ち。神を騙せずに地獄に落とされるなら、神の勝ち。
もし、神が存在せず、最後の審判がなかったら――その時は、神を作った人間の勝ちということになるのかしら。ううん。やっぱり、神なんてものを人間に作らせた神の勝ちなのかもしれないわね。
このはかりごとの結果がわかる時が楽しみでならない。その時のために、私は今を生きている。
(了)