第8回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 落としたオノ 齊藤想
第8回結果発表
課 題
悩み
※応募数323編
落としたオノ
齊藤想
齊藤想
たったいま、ワシは小石につまずき、湖の中に何かを落とした。だが、何を落としたのかさっぱり思い出せない。
困惑するワシをあざ笑うかのように、湖の中から女神が現れた。彼女は両手に
「貴方が落としたのは金のオノですか? それとも銀のオノですか?」
ワシが落としたのはオノだったのか。それも金か銀のオノだとは。これぞまさに驚き桃の木山椒の木。
しかし、本当にワシがそんな高価なオノを持っていたのだろうか。まったく記憶にないのだが。
「うぉっほん。念のために聞くのだが、ワシが落としたのは、金か銀のオノのどちらかで間違いないのかね」
女神はにこやかに答える。
「分からないから、聞いていますのよ。ちなみに、間違えたら地獄行きですからね。ホホホホホ」
女神の冷たい笑みに、ワシは縮みあがった。これままずいことになった。何とかして正解にたどり着かないと。
ワシは、八十数年間の人生で磨き上げた、揉み手と猫なで声を披露した。
「ところで女神さん。湖に何かが落ちてきたとき、それは何色に輝いていたかね」
女神の答えはツレない。
「湖を見張り続けるほど、暇ではありませんことよ」
「チラッとだけでもいいから」
「しつこいですわね。知らないものは知りません」
どうやら、女神も知らないらしい。それならウソをついてもバレないのではないか。ここは適当に答えて……。
「まあ、仮にウソをついたとしても、見逃すことがあるかもしれませんことよ。たとえば、だれかを守るための善意のウソを、わざわざ暴こうとするひとはいるのかしら」
善意であればウソ公認か。これは大チャンスではないか。
「もっとも、私はひとではなくて、女神なんだけどね。ホホホホホ」
結局、どっちなんだ。
ワシは悩んだ。ウソをついて、バレたら地獄行き。だが、金のオノを手に入れたら、孫たちの生活は生涯安泰だ。かわいい孫たちの顔が走馬灯のように駆け巡る。
ついに、ワシは決断した。
「実は金のオノが……」
「金のオノが?」
「欲しいのじゃ」
女神は呆れた様子で、ワシを見下ろした。
「貴方の希望など聞いていませんことよ。何を落としたのかを聞いているのです」
「実は、この湖に何を落としたのか覚えとらん。とにかく金のオノが欲しい。もらえたら、ここで命を落としても本望じゃ」
その答えを聞いた女神は、満面の笑みになった。
「正直な貴方には、金のオノも銀のオノもさし上げましょう」
「へ?」
「貴方が湖で落としたのは貴方自身。つまり、貴方は溺れて死んでしまったのです。落としたのは命で正解です」
呆然とするワシを残し、女神は湖の中に消えていった。湖の中から、歌うような女神の声が聞こえてくる。
「ウソがバレたら地獄行きですから、ご注意あそばせ。ホホホホホ……」
湖のほとりに、金と銀のオノが奇麗に並べられている。
ワシは死んでしまった。あとは金と銀のオノを孫たちにどう届けようかと考えていたら、湖畔が騒がしくなってきた。孫たちが帰らない祖父を心配して探しに来てくれたのだ。
孫たちが湖の中を指して叫ぶ。
「湖にお爺ちゃんが沈んでいる」
「早く引き揚げろ、助かるかもしれない」
「水を吐き出させろ。急げ!」
孫たちが力を合わせて、ワシを救おうとしている。
おい、ちょっと待て。ワシが生き返ると、命を落としたのがウソになって地獄行きではないか。頼むからこのまま死なせてくれ。
だが……とワシは考え直した。
たとえ残り短い人生でも、こんなに優しい孫たちと一緒にすごせるのは、何事にも代えられない宝物ではないのか。金や銀のオノより、もっと大切な。
ワシは自分の死体に近づくと、ゆっくりと体を重ね合わせた。瞼の中に、孫たちの喜ぶ顔が映りこむ。
もうワシは悩まなかった。
金と銀のオノは、いつの間にかに消えていた。
(了)