第8回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 しばらくカツカレー 吉川歩
第8回結果発表
課 題
悩み
※応募数323編
しばらくカツカレー
吉川歩
吉川歩
蕎麦か、カツカレーか。それが問題だ。食券機の前で私は悩む。昼の遅い時間、店内にいる客は数人。どこの町にも一軒はある、色褪せたのれんの、昔ながらの食堂だ。
この食堂には、会社に勤め始めた二十年以上前から通っている。今さら何を食べるかで悩まなくて良さそうなものだが、私は優柔不断なのだ。腹の減りでいえば蕎麦でちょうどいいくらいだが、気分としてはがっつりカツカレーを食べたい。だが、カツカレーは蕎麦より二百五十円も高いのである。ああ、どっちを食べようか。
「また悩んでんのかい」割烹着姿の店主がからかってくる。「あんたみたいな悩み性も珍しいよ。だいたい常連は食うもんが決まってるからね」
「片方に決めたとたん、もう片方が『正解』に見えてくるんだ」私は苦笑した。「だいたいいつも決めてから後悔する。あっちにしておけば良かった、間違ったなあって」
「損な性格だねえ」店主も笑って、声を落とした。「今日は好きなだけ悩みなさい」
私は黙ってうなずいた。
明日から、私は入院することになっていた。ある大きな手術のためで、この店にもしばらくは来られなくなる。いや、じつを言えば、無事退院してまたこの店に来られるのかも保証はないのだった。店主はそれを知っているのだ。
私は温かい天ぷら蕎麦を頼んだ。この店の天ぷら蕎麦は出汁が薄味のぶん、かき揚げにしっかり味がついている。だから、かき揚げをほぐすように食べると美味いのだ。
だが、ああ、私は心の隅で「カツカレーにしておけば」と考えているのだった。分厚いカツの入った、黄金色のカツカレー。最後くらい思い切って好きなものを頼めば良かった。天ぷら蕎麦が悪いわけじゃないが、私はなんでカツカレーにしなかったんだろう。また「不正解」のほうを選んでしまった。そんなふうに後悔した。
実をいえば、手術も同じだった。やるか、やらないか。それが問題で、私はやるほうを選んだ。だが、リスクも伴う難しい手術だ。うまくいくか不安でたまらず、やらないほうがいいんじゃないか、今からでもキャンセルしようか、と毎日悩んでいる。手術をするという選択がどうにも「不正解」のような気がしてならないのだ。
そのとき、私のとなりの席に、日に焼けた青年が座った。年は二十代半ばだろう。目と目の間が離れている。彼が食べているのは、なんと、カツカレーではないか。
うらやましい。私はつばを飲みこんだ。だが、おかしなことに気がついた。カツカレーを頬張りながら、彼はしずかに泣いているのだ。
「ああ、うまい。うまいなあ」
青年が噛みしめるようにつぶやく。私は思わず話しかけた。
「泣くほど辛いカレーじゃないでしょう」
青年は驚いたように私を見ると、破顔して次のように語った。
「すいません。あんまりうれしくて。じつは二年くらい海外に行っていたんです。日本に帰ってきたのが昨夜で。今日はこの店に来て、二年ぶりにカツカレーを食べるって決めていたんです。それで食べたら、やっぱり美味しいから、感動しました。向こうにいる間は日本食なんてレトルトくらいしか食べられなかったんで」
私は青年の日焼けした肌を見て納得した。そして、日々当たり前に食べている日本食のない二年間と、二年ぶりに食べるカツカレーのことを考えた。
「そいつは、格別だね」
「最高っす」
青年の笑顔は輝くようだった。その輝きに惹かれたのかもしれない。自分のことを私は打ち明けていた。明日から入院して、この店に来られなくなることを。
私の話を聞いた青年は考えていたが、やがてポンと手を打った。店主に小皿をもらってカツカレーを取り分ける。あわてて断ったら、青年にからかわれた。
「手術に勝つためのお祈りですから。それに、おじさん、食べたそうに見てたし」
なんと、バレていたのだ。私はバツの悪い思いで、小皿にのった黄金色のカツカレーを受け取った。
カツカレーは甘いルーがとろりとカツにからんでおいしかった。でも、我ながら勝手な感想なのだが、食べ比べてみて、私はこうも思ったのだ。たしかにカツカレーは魅力的だ。でも、「不正解」だと思っていた天ぷら蕎麦も、意外と悪くないぞと。
私は今までもほんとうは「正解」のほうを選んでいたのかもしれない。
(了)