第8回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 決められない人達 若葉廉
第8回結果発表
課 題
悩み
※応募数323編
選外佳作
決められない人達 若葉廉
決められない人達 若葉廉
「私の友達が紹介してくれた精神科の初診、今朝だったよね。どんな感じの先生だった?」
夕食のテーブルを挟んで座る節子が、探るような目で桜井に尋ねた。
「信頼できる先生のような気がするな。選択肢がある時、どれかに決められずにパニックになることが多いと言ったら、そんな時はいつでも連絡していいって。実は、午後にパニックになりかけて電話をしたんだけど、指示がすごく的確で、症状はすぐに治まったよ」
治療を受けるのを嫌がっていた桜井が医師に好印象を持った様子を見て、節子はほっとしたようだった。桜井は、どんな時刻に連絡をとっても丁寧に対応をしてくれる医師に全幅の信頼をおくようになり、再診までの三か月に症状は改善を見せていた。
「お陰様でパニックへの対処方法はわかりましたので、抜本的な治療を始めてください」
「わかりました。それでは、まず医師である私への依存度を徐々に下げることから始めましょう。私とするのと同じような連絡や相談をできる方は、お知り合いの中にいますか?」
誰も思いつかない桜井は黙り込んでしまい、診察室には重い空気が漂った。
「先生。務まるようでしたら、私がお手伝いしましょうか?」
遠慮気味な声の主は、診察室の隅にある机で面談内容を黙々と電子カルテに入力していた看護師だった。桜井はその存在をほとんど意識していなかったが、改めて見ると、年齢は一回り年下ぐらいの二十代後半で、色白で目の大きな美人だった。
「雪村さん、ありがとう。君なら経緯を説明する説明もないし、いつも僕がどう対応しているかも知っているから適任だよ。じゃあ、桜井さん、しばらくは私と雪村さんに交互に電話してください。様子を見て、彼女への相談回数を増やしていくことにします」
電話での雪村は、どこか頼りなさげな第一印象とは違い、とてもしっかりしていた。桜井の悩みを傾聴し、彼が決断しやすいようなアドバイスをくれた。桜井が雪村と話すのが楽しみになり、パニックと偽って連絡する誘惑にかられ始めた頃、医師から連絡があった。
「症状は一段と改善していますね。医師による緊急対応はもう必要ないでしょうから、今後の相談をすべて雪村さんに任せることにします。面談形式も、日常生活により近い状況に慣れるために対面に変更します。ただ、面談の日時と場所は雪村さんに決めてもらいます。桜井さんが決めるには選択肢が多すぎて負荷が重く、パニックを再発しかねないので」
雪村と会えると聞いた桜井は、医師の配慮も上の空で、年甲斐もなく胸がドキドキした。しかし、その二週間後、思いも寄らぬ展開の末、桜井は診察室でうなだれて座っていた。
「何があったかは雪村さんから報告を受けていますが、桜井さんからも聞かせてください」
「ええ。私と雪村さんは、面談を兼ねたディナーを終えて二人で路上にいました。それを偶然見かけた妻が二人の関係を誤解して、離婚をすると言って一週間前に家を出たきり戻ってきません。本当に運が悪くて、妻に見つかった時に、二人がたまたま……」
消え入りそうな桜井の声をさえぎり、医師がいつになく厳しい声でぴしゃりと言った。
「抱き合っていた。正確には、あなたは嫌がる雪村さんを抱き寄せ、キスを迫っていた」
「彼女はそう言うんですが、トイレに行った後のことはほとんど覚えていないんです」
「雪村さんはあなたの
医師から医師から突き放された桜井だったが、自分でも意外なことに、パニックを起こすこともなく相応額の慰謝料を支払うと即答した。カーテン越しに感じた気配は、話に耳をそばだてている雪村かもしれないと思ったが、確認する気にもならなかった。もはや雪村への甘い思いは微塵もなく、苦い記憶としてきっぱり忘れ去ることに決めたからだった。
入口のドアが閉まったのを確認した節子が診察室に入って来ると、医師は破顔した。
「即断だったね。治療の効果かな。お金だけど、約束した報酬としてそのまま雪村さんに渡しておくから。でも、濡れ衣の浮気で離婚されるなんて、桜井さんも少し可哀そうだな」
「今さら何よ。薬で意識を朦朧とさせた彼に、淫らなことをしたと思い込ませるというのはあなたの案じゃない。それに、同情する相手は彼じゃなくて、優柔不断で何も決められなくて、すぐにパニックになる情けない男と十年以上も一緒に暮らしてきた私でしょ?」
「わかった、わかった。ところで、僕たちの新婚旅行の行先はもう決めたの?」
「まだ。遊びの計画を悩みだすと全然決められないのよ。でも、離婚はしないでね」
(了)