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第8回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 種工房 桜井かな

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第8回結果発表
課 題

悩み

※応募数323編
選外佳作
 種工房 桜井かな

「君、何か悩み事があるでしょう」
 夕方の東京駅。黒色のアメーバみたいにどろどろホームに流れていく会社員の群れのなかに僕はいた。なのに、その若い男はしっかりと僕に狙いを定めて話しかけてきた。
 道で話しかけられやすい顔つきというものがある。怪しげなマルチだの宗教だの社会人サークルだのに、頻繁に目を付けられてきた。僕は舐められやすい童顔で、気の弱さが頑固な汚れのように顔にこびりついている。いつもなら「はあ」と返事をして、相手の話に一時間ほど付き合うのだが、その日は上司から理不尽に叱られ、珍しく苛々していた。
「そうですね。悩みならあります。あなたみたいな人に道でしょっちゅう声をかけられることですね。僕がチョロそうに見えるんですよね。実際、契約書に捺印する直前まで何度もいってますからね。カモネギ予備軍であることが悩みです。ハハハ」
 自分でも驚くくらいの嫌味が口を出てきた。目の前の男が怒り出さないかびくついたけれど、彼は柔和な笑みを深くしただけだった。
「でしたらちょうどいいですね! その悩み、ぱぱっと解決することができますよ」
 彼は嫌味を理解しない人なのか、それともわざと知らんふりするタイプなのか判断しかねた。僕は早くも男に恐れをなした。
「いやあでも、この後時間もないですし、暇だったら話くらい聞いてもよかったんだけど」
「大丈夫! この場でズババっと悩みを取り出してみせます!」
 嘘みたいにハキハキした答えが返ってきた。もしかして彼は組織の売人で、これから麻薬を買わされるとか? 混乱していると、彼は右手にゴム手袋を付けて「後ろを向いてください」と言う。僕は仕方なく背を向けた。つむじの辺りに彼の手が触れたようだ。その手は何かを探り当てるように頭部を這い、不思議なことに「何か」を見付けて掴んだのだった。僕にははっきりと分かった。ズボボボボ、と頭の後ろから間抜けた音がして、頭から「何か」が引き抜かれた。それは植物の形をしていた。実家の庭で抜いたような色の濃い雑草が、彼の手のなかに収まっている。根っこの部分は仄かに光っていた。頭頂部を触るとへこんでいるではないか!
「萌芽した『悩みの種』を引き抜きました。どうです。気分がいいでしょう」
 男は得意げに言った。そして僕に名刺を渡すと煙のように雑踏にまぎれていった。
 たしかに僕の心は五月の爽やかな風が入ってきたかのように軽くなっていた。名刺を見ると、男の名前と、種工房という店名、それと住所が書いてある。次の日から、僕はせっせと種工房に通い、男から悩みの種を取ってもらうようになった。工房に行くと数日間は気分がすごく良くなった。男は金を取らないし、物腰は柔らかく、夜遅くでも対応してくれた。彼は抜いた悩みの種をゴミ箱に入れるわけでもなく新聞紙の上に並べた。「脳汁で湿っているから乾燥させているんです」と説明された。
 悩みがなくなると、僕は陽気になった。自信に満ちたせいか変な人に絡まれることもなくなり、とんとん拍子に出世して、彼女ができて、結婚もした。
 異変はいきなりやって来た。いつものように会社に行くため七時に起きようとしたのに、身体がだるくて起き上がれないのだ。熱も咳もない。悩みもないのだが、頭のなかに白い靄がかかったみたいにぼうっとした。会社より病院よりも先に、種工房へ電話した。
「種を取りつくしたせいです。根っこが光っていて綺麗だったでしょう。あれは悩みの元になる希望の結晶なんです。希望がなけりゃ、人は悩みません。僕はその美しさに魅了されて、悩みの種を取っているんです」
「か、返してください! それ!」
 ぼんやりしてよく分からないが、僕は大切なものを盗られていたらしい。
「はは、もう無理ですよ。あれは僕の作品の一部になっていますから」
 しばらくして郵便が届いた。それは美しいスノードームで、逆さにすると、雪の結晶が音もなく舞った。僕の悩みの種は雪にされたようだけど、取り出す気力はなくなっていた。
 僕はスノードームを見ながら、とろとろと寝続けたが、ある日妻のお腹がぽこんと膨らんでいることに気が付き、急に目が覚めた。
「あなたが頼りないから黙ってたけど妊娠してるの。そろそろしゃきっとしてくれない?」
「ああっ、頭に生えてる! 悩みの種が!」
 頭部を触ると元通り平たくなっていた。僕はそのうち父親になるらしい。嬉しい反面、気弱な僕はけっこう不安にもなった。希望と悩みの重さを、久しぶりに噛み締めた。
 数年が経ち、スノードームは子供に割られ、いつの間にか男の名刺もなくした。けれど、僕は道で話しかけられやすいので、また彼と会うのでないかと思っている。
(了)