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第34回「小説でもどうぞ」選外佳作 最後の1ページ 石井木子

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小説・シナリオ
小説でもどうぞ
第34回結果発表
課 題

最後

※応募数233編
選外佳作 

最後の1ページ 
石井木子

 ページをめくる手は止まらない。本を沢山読む方ではないが、この前たまたま手にとった一冊が、大当たりだった。こんなおもしろい作品いつぶりだろう。主人公ルイスの苦しい心情を見事に描いた、胸につき刺さるような表現が、随所に散りばめられている。美しい文章をじっくり味わいたくもなるが、物語の続きが気になって仕方ない。このルイスって男は本当に……。
「ちょっと徹さん、聞いてるの?」
 本から顔を上げると、妻の美奈子が、不満そうな顔でこちらを見ている。
「今、本を読んでるんだけど?」
 俺は単行本を両手で掴んだまま、ライオンキングで猿の長老みたいなのがシンバを抱き上げるがごとく、うやうやしく本の背表紙を見せつけた。
「じゃあ、日曜日の一時でいいってお義母さんに言っておくからね」そういって妻は居間から台所へ向かうと、がちゃがちゃと夕食の準備をし始めた。ああ、うるさい。こんな世帯じみた場所ではいかん。世界観ってのがあるんだよ、世界観。俺は二階の自室へ行くと、ドアを閉めて、レコードプレイヤーの電源を入れ、針を落とした。バーンスタイン指揮のマーラーの交響曲が流れ出す。よし、これでいい。本革チェスターフィールドのひとりがけソファに腰をおろし、再び本を開く。昨日から読み始めてもう最終章だ。ここだけの話、ソフィは俺の初恋の人にどことなく似ている。そして、主人公の父にはいつの間にか死んだ親父を重ねていた。この物語には、何か人生についての深いメッセージを感じる。この本は俺の人生を変えてしまう一作になるのではないか、そんな予感さえもあった。
 いよいよ緊張のクライマックス。愛するソフィを事故で失い、落胆にくれセーヌ川で身投げを図るルイスの目の前に、生き別れた弟が現れる。彼はソフィは生きているが、会うためには三つの条件があるという。残すはあと1ページ。
 背筋がぞくぞくした。ソフィ生きてんのか! 条件三つ? 待てよ、これまでにルイスの身には悲劇が三回起こって、その度に彼は大切な人を失っている。思えば三というのは、この物語の中で重要な数字だ。そしてその三つが絶対的な必然性をもって今繋がり、真実が明らかになるとしている。これを三位一体の図式に照らし合わ……
 ――ガガガガッ
 けたたましい音が壁をつたって部屋を揺らした。隣の家の建て替え工事だ。おいおい、勘弁してくれよ。先程までの崇高な考察が無惨にかき消された。ドリル音を無視して読み進めようとしたが、この壮大な物語のフィナーレを飾る最後の1ページを、こんな騒々しい場所で読むのはもったいない。俺はソファから立ち上がると、ジャケットをつかみ、近所の公園へ向かった。
 なんだったっけ。そうそう、三つの条件。公園に着くと、早速ベンチに腰掛け、本を開いた。
 ――ワン、ツ、ワン、ツ
 ベンチ後方でおばさんがエクサイズを始めた。最後の1ページをめくる俺の手が止まる。俺はおばさんをひと睨みすると、公園の反対側のベンチへ移動した。
 再び本に向かう。ごくりと唾を飲んだ。次の1ページで全ての謎が解き明かされ、この物語が俺の人生において、重要な意味を持つものとなることが、決定づけられるのだ。左の親指と人差し指がページを愛撫する。震えながら指の力を抜くと、運命の最終ページが目の前に現れた。
 ――カァー、カァーッ
 この野郎……。頭上のカラスを見上げ、俺は震える腕でベンチの縁を掴んだ。そうだ、図書館へ行こう。俺は指を最終ページに挟んだまま、早足で歩いた。あそこなら誰も邪魔できまい。
 図書館入口の自動ドアが開くと地下に降りて、一番奥の地形図コーナーにある椅子に座った。見込み通りそこは館内で一番ひとけがなく、キーンという耳鳴りが聞こえるほどに静まり返っていた。俺は頬を緩めて頷くと、左手で掴んでいた本をそっと膝に置いて、優しくページを開いた。待たせたな、ルイス。
 ――ぐうう、ぐががー
「うるっせーじじい!」
 聞いたことのない怒号が自分の口から飛んだ。周りの視線を感じる。いびきをかいて寝ていた老人も驚いてポカンとしている。
「あっ。すみません。どうもすみませんでした」ぺこぺこ頭をさげて逃げるように図書館を出た。駄目だ。少しおかしくなってきているみたいだ。町を出よう。誰もいないところ……。頭に名案が浮かんだ。
 ほとんど走るようにして駅へ向かい、電車に飛び乗った。目的の駅に着いて、そのまま住宅街を二十分程歩くと「登山口」の看板が見えた。ここの山頂部は穴場で、景色が良いが険しい道のためか滅多に人がいない。昨晩の雨で道はぬかるんでいたが、二時間無言で登り続けた。ついに頂上へたどり着くと、目の前には絶景が広がっていた。日は既に傾き始めていて、遠くに海が見える。空はほんのりピンクがかっている。人の気配は無く、かすかに鳥のさえずりが聞こえる。木々を揺らす風の音が、気持ちよく体を満たした。完璧だ。申し分ない。苦労して来た甲斐があった。
 俺は一番座りやすそうな岩に腰をかけると、上等な料理を味わう前のように、舌なめずりをして、本を膝においた。そしてもう一度あたりの景色を見渡しながら、頭の中で物語をおさらいした。心の準備ができると、ふっと息をついて最後のページを開いた。そこにはたった一行、こう書いてあった。
 ――ルイスは、自分の部屋で目を覚まし、すべてが夢であったことを知った。
(了)