第34回「小説でもどうぞ」選外佳作 最後さん 酒井一樹
第34回結果発表
課 題
最後
※応募数233編
選外佳作
最後さん 酒井一樹
最後さん 酒井一樹
かつて悪魔ちゃんという名前をつけられた子がニュースになったというが、最後さんという名前もなかなか強烈だ。
新卒採用された会社の、直属の上司が最後さんだった。最後さんはおそらく四十代後半、いつも優しく柔らかな物腰で、ハンサムだけど主張しすぎない顔立ちで、きめ細やかに仕事を教えてくれる理想的な上司だった。
新人たちのあいだでは、最後さんがあまりにも完璧なのでむしろ少し訝しむ風潮があった。だけど周りの先輩たちに話を聞くと、「最後さんは昔からああいう人だから」「最初はちょっと不気味だったけど、とにかく仕事が早いし丁寧だし」「あんなに素晴らしい人はいないよ。最後さんがいなかったら、この会社は終わりだと思う」などと絶賛の声ばかりだった。
同期のヨータやユージは、自分も最後さんのようになりたいと息巻いている。カナコやミドリは、イケおじ上司として最後さんを信奉していた。
そしてわたしは、最後さんに本気で恋をしている。
「最後さんは、ご結婚されたことはあるんですか?」
就職して半年が過ぎたころ、わたしはついに最後さんとサシで飲むチャンスを得た。
「ありますよ」
最後さんは黒髪と白髪の入り混じった前髪を掻き上げ、頬に淡いほうれい線を浮かべて微笑んだ。
「ちなみに子どもも一人います」
わたしはショックのあまり呆然とした。
「もしかして今もご結婚されてます……?」
「はい」
最後さんはカウンターの上のグラスを口に運び、琥珀色のカクテルの波紋をメガネに反射させた。わたしはその横顔に見惚れながら、全身の力が抜けていくのを感じた。
「指輪はされていないんですね……」
「はい」
「社内では秘密にされてきたんですね……」
「いえいえ、これまで訊かれたことがなかったので」
わたしは深く首を垂れ、自分の恋路があっけなく断たれたことを知った。
「どうされました?」
最後さんはカウンターに前屈みになって、わたしの顔を静かに覗き込んだ。すでにお酒の回っていたわたしは、やけくそになってすべてを打ち明けた。
「わたし、最後さんは独身貴族だと思っていたんです。そしてその孤独を、わたしが埋めてあげれると思っていたんです」
おそるおそる頭を上げると、最後さんはキョトンとした顔でわたしを見ていた。
「そういうことなら、そうしましょう。近くのホテルを探すので少々お待ちください」
最後さんはジャケットから携帯を取り出して、淡々と地図アプリを起動した。
「へ? 最後さん、ご結婚されてるんですよね?」
わたしが言うと、最後さんは発光する画面から顔を上げた。
「はい。ですが、結婚したらそれが最後ではないので」
わたしはだんだん頭が混乱してきた。最後さんは画面上で黙々とホテルを検索している。
「僕は自分の名前の反動なのか、最後という概念が嫌いなんです。嫌いというか、憎んでいると言ってもいい。だから何事にも最後はありません。女性との関係でもそうです」
最後さんがいつもの穏やかな顔で微笑むのを見て、わたしは自分の膝が震え出すのを感じた。
「でも最後さん、いつも職場で最後まで残ってらっしゃいますよね……」
「あれは最後ではありません。僕は退社というものをしないので」
「え?」
「仕事は二十四時間、常時継続されています。業務の終わり自体、存在しません」
「社内で寝泊まりされているんですか……?」
「眠りません。眠るとそこで意識が終わってしまいますから。眠りは僕にとって、最も最後を象徴する最悪の行為です」
わたしはカウンターの下で、隣の椅子に置いたバッグの紐を掴んだ。
「家に帰られないのだとしたら、ご家族はきっと淋しいでしょうね……」
わたしが言うと最後さんは珍しく声を出して笑った。
「まったく帰らないわけではありません。週末は彼らの元へ行き、家族サービスに徹するのでなにも問題ありません。週『末』という言葉も嫌いですけどね」
わたしは椅子の下のつま先を出口に向けたまま、最後にどうしても聞かずにいれないことを訊いた。
「死ぬことについては……」
「わたしは死にません」
最後さんは迷わずそう答えた。
「私の試算上、あと二十年以内に人間の意識はデジタル上へと移行し、肉体は人工身体に置き換わります。万が一科学に遅延が生じたとしても、私はすでに子どもを作成済みなので、彼が私の存在をまるごと引き継いでくれます。見た目も性格も、私に瓜二つに育て上げる予定ですから」
彼はそこまで言うと、口に手を当てプフッと吹き出すように笑った。
「名前だけはもちろん、変更せざるをえませんでしたが」
わたしは立ち上がり、出口に向けてゆっくり退きながら尋ねた。
「お子さんのお名前は……」
「もちろん『はじめ』に決まっているでしょう」
(了)