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第50回「小説でもどうぞ」選外佳作 遭難 飯島望

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小説
小説でもどうぞ
第50回結果発表
課 題

まちがい

※応募数309編
選外佳作 

遭難 
飯島望

 ひとりの男が山登りに出かけた。男はそれまでSNSで知り合った仲間に連れられて登山をしていたが、ひとりで出かけるのは今回がはじめてだった。
 登山届には初級者コースを登ると記入したが、直前に思い直して隣接する中級者コースを登ることにした。より困難だとされるコースを登った経験もあるため、問題ないだろうと考えたのだ。
 しかしその登山道はあまり整備されておらず、ところどころにある獣道と本来の道との見分けが付きにくい。地面は固く歩きやすかったこともあり、男は気分よくすいすいと登り続け、山の中腹付近で道を外れたことにも気が付かなかった。
 次第に道らしき道はなくなり、足場はどんどん悪くなっていった。男もようやく道を間違えたことに気付き引き返そうとしたが、そのときにはどちらがもと来た方向なのかわからなくなっていた。すぐにスマートフォンを見たが圏外であり、外と連絡をとる手段もない。男は登山アプリをダウンロードしなかったことを後悔した。これまでも仲間からしつこいほどに勧められていたのだが、自分が遭難している姿を想像することがどうしてもできなかったのだ。
 一夜経ち、男と連絡がつかないことに不安を感じた家族が警察に通報した。すぐに捜索隊が出動して男を探しはじめたが、その範囲は登山届にあった初級者コース付近に限られた。そして懸命な捜索にも関わらず手掛かりのひとつも発見できなかったため、ヘリも動員して男の発見と救助を急いだ。
 一方で、男は遭難した場所から動かず待機していた。道もわからないまま行動して、さらに森の深くへと入っていってしまうのを不安に思ったからだ。しかしその場所は鬱蒼とした木々に覆われており、上空のヘリから見つけることはできなかった。もう少し見晴らしの良いところならば発見の可能性もあったのだが、男の頭にその考えは浮かばない。
 幸いにして食料と水は十分な量を持参していたため、そのままでも数日間はやり過ごすことができる、はずだった。
 夕方前、男は自分に向けられる視線と息遣いに気が付き、辺りを見回した。そしてまだ離れてはいるが、暗い木々のあいだにその姿を認めた。
 熊だ。
 黒く短い体毛に覆われた大きな熊がこちらのようすを伺っている。すぐ脇には子熊の姿も確認できた。
 万が一、熊と遭遇してしまったときの対処法は男も知っていた。まずは熊を刺激しないことを大前提とし、相手が興奮していないなら、大声をあげずゆっくり後退しながらその場を去るのが望ましい。特に熊が子連れの場合は、子供を護るため外敵に対して敏感であるため、より慎重に行動しなくてはならない。
 しかしそれ以前から極度の緊張状態にあった男は、そんな事前知識など忘れてパニックに陥った。大きな叫び声をあげると熊に背中を向け、慌ただしく駆け出してしまったのだ。どこへ向かっているのかもわからないまま必死に逃げるが、後ろを向いてみれば熊は太い四肢を跳ねさせながら後を追ってくる。それを見るたび、男は惨めに泣き叫びながら、熊のいるところとは逆側へと向きを変え逃げまわった。
 いつの間にか、男は切り立った崖の上に立っていた。目の前には暮れゆく空と雲しかなく、下を見れば今しがた落ちた石が遠い地面へと吸いこまれていく。気が付けば、背負っていたはずの荷物もなくなっている。それはつまり、熊よけスプレーという最終手段すらも失っていることを意味した。
 もはや成すすべはない、と絶望しながら恐る恐る後ろを向いたが、奇跡的に熊の気配は感じられない。そしてかわりに、男は音を聞いた。大自然には似つかわしくない文明の音、男を探す救助ヘリだった。
 ほとんど同時に、操縦士が大きく手を振る男の姿を発見した。男の立つ崖の周りには高い木など接近を邪魔するものがなかったため、そのまま近寄ってはしごを下ろし、男を保護することに成功した。
 後部席に乗りこむと、男は興奮したようすで「はやくヘリを出してください」と懇願した。「さっき熊に襲われて、まだ近くにいるはずなんです」
 乗り合わせた救助隊員は驚き緊張を走らせたが、男には目立った外傷は見受けられなかった。そもそもこれまで、この山で人が熊に襲われたという報告はまったくない。しかし男が嘘をついているとも思えず、隊員たちはそろって首をかしげることとなった。

 親熊がもといた場所に戻ると、木の影にいた子熊がひょっこりと顔を出した。
「母ちゃん、さっきの人間はどうなったの? うまく里に戻れたのかな?」
 親熊はあきれたように鼻を鳴らした。
「さあね、あんなバカ人間のことなんて知らないよ」と言いながら、親熊は拾ってきた男の荷物を漁りはじめた。「そもそも、人間がこんな山の中に入ってくること自体がまちがいなのさ。坊やがかわいそうだなんて言わなけれりゃ、私だってあんなのを助けようとは思わなかったしね。……おっと、こいつは上等なエサだ。バカ人間のくせに良いものを食ってるね」
「やったあ、今日はごちそうだ」
「そうだね、坊や。だけどこれに味を占めちゃいけないよ。また食べたくなって人里に下りたら、どんなまちがいが起きるかわかったものじゃないんだから」
(了)