第50回「小説でもどうぞ」選外佳作 誰がために…… いちはじめ


第50回結果発表
課 題
まちがい
※応募数309編
選外佳作
誰がために…… いちはじめ
誰がために…… いちはじめ
首相は本殿の中で静かに頭を垂れていた。普段なら厳かな静寂に包まれている境内も今日は様相がだいぶ違う。神社の外で行われている大規模な抗議デモが、本殿奥深くにまで喧噪を送り込んでくるからだ。
五十回目の敗戦記念日の今日、先の大戦での戦没者と戦犯を祀っているこの神社に、首相が訪れることはタブーなのだ。
だが首相はどんなに非難されようとも、この日の参拝をやめることはなかった。
「総理、不穏な動きがあります。会見場所を移された方が……」
「いや、そのままでいい。あの戦火で亡くなった人々を思えば、私の身など大したことではない」
そんな強い覚悟で今日まで臨んできた首相だったが、あの時引き金を引くべきだったのでは、との思いが今も胸の奥底でくすぶっていた。
――一人で背負うには重すぎますよ、来栖さん。
参拝を終えて外に出ると、八月の焼けるような日差しがあの日と同じように首相の肌を刺した。
敗戦五十年の歴史的なこの日、またもや神社への参拝を強行する首相に、鉄槌を下すべくアジトに集まっていた俺たちは、綿密な準備を進めていた。
そこに一人の男が飛び込んできた。
「逃げろ、公安が踏み込んでくるぞ!」
部屋にいた全員に緊張が走る。リーダーが「みんな散れ!」と叫び、同志は一斉に四方に散っていった。
俺は知り尽くしたこの街の路地を縫うように走り、廃れた神社の社務所に身を隠した。
公安もさすがにここは把握してはいないだろう。安堵のため息をついた時、背後に人の気配を感じた。
「誰だ!」
振り向くと、夏だというのに薄汚れたカーキ色のコートを纏った痩せた男がいた。
「ここも公安に把握されている。すぐに奴らはやってくるぞ」
公安ではなさそうだが、きな臭い感じがする。
返事をしないでいると、男は冷たい顔で続けた。
「お前を助けてやってもいい。しかし条件がある」
「どんな条件だ」
「首相の暗殺に手を貸してほしい」
――暗殺だと?
「何を驚いている。首相の会見場に火炎瓶を投げ込もうとしていたくせに」
「それは抗議活動で、断じて暗殺などではない」
強く抗議する俺を鼻で笑って男は続けた。
「まあいいだろう。対象は今の首相ではない。来栖だ」
「来栖だと? 死刑になったあの来栖か。ふざけるな」
来栖首相は、この国を戦争に突入させた最大級の戦犯として悪名が高い。
「ああ、説明するのが億劫だ。ついてこい」
警戒する俺を尻目に、男はコート下から唐突に銀色のスティックを取り出すと、先端のボタンを押した。
その瞬間、まばゆい閃光が部屋を満たした。
それが収まると、俺たちは重厚な雰囲気の部屋にいた。
男は「今は開戦の三年前だ」と言い、壁のレトロな暦を指した。その暦には戦前の年号が書かれていた。
――そんな馬鹿な。
「俺たちは未来から、あの悲惨な戦争を阻止すべくタイムスリップしてきた。今年中に来栖を始末しなければ開戦は避けられない」
理解の範疇を超えている。だが無理やり連れ出された街はまぎれもなく戦前の姿だった。
そこには映画やドラマで再現されたものとは似て異なる本物の時代の息吹があった。
この街も人々もあと数年もすれば戦火に巻き込まれてしまう。
――あの人たちを犠牲にしてはいけない。
来栖は戦後その責を問われ処刑される。ならば今殺しても同じことだ。やるしかない。
俺は申し出を引き受けた。
そしてついに暗殺決行の日を迎えた。
官邸に忍び込んだ俺は、執務中の首相の後ろに立ち、拳銃を彼の頭に向けた。
気配を感じた彼は静かに首を回して俺を一瞥した。
「来たか。待ちくたびれたぞ」
「恐怖で頭がおかしくなったか。命乞いをしても無駄だ」
彼は回転椅子に座ったままこちらに向き直った。
「まあ聞いてくれ」
往生際の悪い奴だ。どのみち最後の願いだ、聞いてやるさ。
「この戦争を止めてはいけない」
「何を言う。知らないだろうから教えてやる。この戦争は負ける。そしてお前は戦犯として死刑になるんだ」
「そんなことは知っている」
「何だと?」
「俺も未来人だからな」
「嘘をつくな!」
「反戦派未来人は信じたくせに、私は信じられないのか」
俺は言葉を失った。
彼はゆっくり立ち上がると、俺から拳銃を取り上げ自分の椅子に俺を座らせた。彼の微塵も動揺を見せない態度に、俺は全く抵抗できなかった。
彼の話によれば、百年後の未来でもあの大戦をめぐって鋭い対立――他の政治的問題も絡めて――があり、ついに反戦派は開発されたばかりのタイムスリップ装置を使い、非合法の活動を始めてしまったのだという。
「どんなにシミュレートしても、戦争が起こらなかった世界は悲惨なものになってしまうのだ。考えてもみろ、我が国には軍国主義が温存され、列強の植民地には独立解放運動も起こらず、そしてそんな世界に核の時代が訪れる……」
俺のいた元の世界はあの敗戦があったからこその世界だと? だから彼は、自分が戦犯として処刑されると分かっていても、その世界を守るために開戦に踏み切るというのか。
俺は彼の覚悟の重さに圧倒された。
「それが分からぬ反戦派は我々の手で粛清する。だが君にはやってもらいたいことがある」
彼はうなだれた俺の肩に手を置いた。
「辛いだろうが君には戦中を生き延び、戦後のこの国を立て直してもらいたい。そして未来のために犠牲になった人々を弔い続けてほしい」
俺の心の中に何かずしりと重たいものが宿った。
(了)