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第15回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 言えない 轟駿

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小説でもどうぞ
結果発表
第15回結果発表
課 題

勘違い

※応募数275編
選外佳作
 言えない 轟駿

 向かいの部屋の田中さんは、私を狙っているに違いない。
 切れ長のあの目で、私のことを五十を過ぎた独り身の熟れた女として見てるのよ、きっと。
 だってそうじゃなきゃ、いくら同じマンションに住んでるからって、こんなに頻繁に出くわすことなんてあるかしら。
 何気なしに玄関を出ると、
「あっ、尾崎さん、こんちわ」と、田中さん。
 一階の郵便受けを確認していると、
「あっ、尾崎さん、どうも」と、田中さん。
 夜、急な物入りでコンビニに行くと、
「あっ、尾崎さん、こんばんは」と、田中さん。
 何が『あっ、尾崎さん』よ。白々しいったらありゃしない。絶対に私を見張ってるんだわ。
 そこで、朝はエレベーターを使わずに階段で降りてみたの。そしたら下から誰かが上がってくる足音が聞こえてきて、それが何と田中さんだったのよ。
「あっ、尾崎さん。おはようございます。健康のためにね、たまには階段を使おうかと思って」
 嘘ばっかし。どうせ、今日は私がエレベーターを使わないことを知ってて、下で待っていたに違いないわ。いやらしい人!
「あら、おはようございます。田中さん。足の健康は大事ですからね、それじゃ」
 私がそう言うと何か言いたそうにしてたけど、ぷいと立ち去ってやったわ。
 こないだはスーパーで買い物中に、田中さんを見かけたわね。麦わら帽子を深めに被ってらしたけど、それが田中さんだとすぐにわかったわ。彼の買い物カゴには、缶ビール一ケースにさきイカ、おにぎりせんべいのファミリーパックが入ってた。好きなのかしら、おにぎりせんべい。私も好きなんだけど、真似されてたら癪だわね。
 一人で近所のカラオケに行ったときも、受付に田中さんがいたのよ。彼も一人で来てたみたい。
「あっ、尾崎さん。こんちわ。ここのカラオケ、僕もよく来るんですよ。いや、何だかお恥ずかしい」
 もし良ければ一緒に歌いませんか? とでも言いたげに。残念ね! そうはならないわよ。
「そうなんですね、歌は良いですものね。田中さんも楽しんでくださいな。ではお先に」
 私はさっさと受付を済ませて、ドリンクバーも取らずに部屋へ入ろうとすると、田中さんもこっちに歩いてきて、何か言いたそうにしてたけど、無視して部屋へ入ったの。でももし隣の部屋に田中さんが入ったら、私の歌声が漏れて聴かれてしまうんじゃないかしら。それって一緒にカラオケしてるようなもんじゃない。まったくもう。

 向かいの部屋の尾崎さんに、言わなければならないことが一つある。
 けれども僕は、それを口に出す勇気がない。もうすぐ六十にもなるというのに、女性を目の前にすると、しどろもどろになってしまう自分が情けない。いまだに独身なのはこれが原因だろう。
 早朝の散歩帰りに、エレベーターを使わず、階段で上ろうとしたとき、尾崎さんが降りて来たので僕は驚いた。思っていることを言うつもりだったが、尾崎さんの顔を見ると、健康がどうとか言っただけで、肝心なことは何も言えずじまいだった。
 スーパーで、ビールとさきイカと、何かもう一つ買おうかと考えていると、目の前に花柄の薄紫色ワンピース姿の女性がいて、すぐにそれが尾崎さんだと気付いた。彼女は後ろ向きだったから僕には気付いてなかったが、買い物カゴにおにぎりせんべいが入っているのを見て、思わず僕も買って帰った。それ以来、妙におにぎりせんべいにハマってしまい、今ではファミリーパックを買って常備する程になってしまった。
 カラオケでは、隣の部屋の尾崎さんの歌声が漏れて聴こえてきた。その曲は、僕もよく歌う曲だったんだ。
〈なぜ なぜ あなたは〉
〈好きだと 言えないの〉

 そして今、マンションの廊下で、絶好の機会が訪れた。僕は勇気を振り絞った。
「尾崎さん。こんちわ」
「あら、田中さん。こんにちは」
「あの──」
 言うぞ。今日こそこの思い、伝えなければ。
「僕は……実は、僕は──」
 ガチャリとドアの閉まる音がして、尾崎さんはもうそこにはいなかった。
 言えなかった。今日も言えなかった。
 僕は田中ではなく、中田だということを。
(了)