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第16回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 ママを起こさない夜 木南木一

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小説でもどうぞ
結果発表
第16回結果発表
課 題

悲劇

※応募数424編
選外佳作
 ママを起こさない夜 木南木一

 第一子が生まれてから、夜は「休む時間」じゃなく「起き直す時間」になった。真夜中、薄い壁の向こうで冷蔵庫が低く唸り、畳の目だけが暗さの中でうっすら見えている。やっと横になったと思った瞬間、赤ん坊の泣き声が喉の奥の眠りを引きずり出す。
「……わかった。いま行く。ちょっとだけ、声、下げてくれ」
 赤ん坊に言う形で、自分の足と腕に言う。隣の部屋には妻がいる。やっと眠った呼吸を、今夜だけは切りたくない。私は声を出さずに起き上がり、布団の端をつまんで畳へ足を下ろす。
 抱き上げると、熱と重さが腕に乗る。胸に近いぶん、泣き声が鋭い。
「大丈夫。落とさない。ここでやる」
 時計は見ない。夜が数字になる。片手で背中を支え、もう片手でオムツの位置を探る。ミルクだ、と頭が言うより先に鼻が言う。甘くない湿った臭い。
「ミルクはあと。先に替える」
 テープを外す。案の定、うんちをしている。

 湯気のない夜にだけ、臭いは輪郭を持つ。ウェットティッシュを引き抜く音が畳の上でやけに響く。私は指先の力を抜く。急いだ音は壁を通る。
「……静かに。ママが起きる」
 妻に聞かせないための言葉だ。赤ん坊に言っているようで、自分の手つきを抑えている。背中を少し持ち上げ、足を押さえ、丁寧に拭く。拭けば拭くほど、まだ残っている気がして同じ場所へ戻る。迷いで手が戻る。
「きれいにする。それだけ」
 赤ん坊は泣き声を一段落させ、代わりに鼻を鳴らす。その小さな音だけで胸が少し緩む。肌が整い、清潔なオムツを当て、テープを左右きちんと留める。その瞬間だけ、世界が真っすぐになる。
 哺乳瓶を差し出すと赤ん坊が吸いつく。小さな口が必死に働き、喉が規則正しく動く。飲む音は静かで、ここだけが夜の中心みたいだ。
「そう。飲めてる。えらい」
 私はその静かさに縋る。呼吸が、少しだけ人間の形に戻ってくる。

 ミルクを飲み終えた赤ん坊を肩に乗せ、背中を軽く叩く。げっぷが出れば、ひとつ終わる。終わらせたい。
「げっぷだけ。出して。そしたら寝よう」
 胸のあたりがふっと温かくなった次の瞬間、酸っぱい匂いが鼻を突く。げっぷと一緒にミルクが吐かれ、私の肩から布団へ白い筋が滑って落ちる。私は息を止める。
「……布団、やられた」
 声は出せないから、口の中でだけ言う。洗う。干す。乾かす。段取りが頭の中で渋滞する。そこへまた臭いが立つ。さっき終えたはずの臭いが、別の角度から戻ってくる。赤ん坊の顔を見る。まぶたが重くなりかけている。知らないうちに、またうんちをしている。
「……嘘だろ。今?」
 返事はない。手順だけが元へ戻る。

 オムツを外す。今度は「急いで」が手を荒くする。ウェットティッシュを引き、拭き始めた瞬間、赤ん坊の腹が小さく力む。ゆるい感触が指に当たる。ぬるい。反射的に手を引くが遅い。畳の上に細い線が落ちる。畳の目に沿って、染み込みそうに広がる。
「やめてくれ……畳だけは、やめてくれ」
 誰に向けた言葉でもない。今、守りたいものの名前を口にしているだけだ。拭く。押さえる。広げない。浅い息で手が震え、輪郭が増える。
 その最中に、さっき飲んだミルクがまた口からあふれ、前腕を伝って落ちる。白と茶色が同じ夜に混ざる。私は一瞬だけ目を閉じる。
「……声、出すな。ママを起こすな」
 自分に命令する。怒鳴ったら終わりだ。片手で赤ん坊を支え、片手で畳を止め、布団へ飛ばさないように体をねじった瞬間、熱いものが飛んできた。おしっこだ。細い強い線が、私の腹と手首に当たる。
「……わかった。こっちで全部受ける」
 言ってしまう。受けるしかない。私は歯を噛み、まばたきだけする。限界は叫びじゃなく、手の遅れで出る。

 誰も起きてこない。起こさない。窓の外は真っ黒で、遠くの車の音も途切れている。赤ん坊の泣き声と擦れる音と私の呼吸だけが部屋に残る。私は汚れた畳を何度も押さえ、濡れた布団を避けるように赤ん坊を抱き直す。腕が重い。指が冷たい。
「ここで倒れたら、起きるのはママだ」
 そう思うだけで立っていられる。声を出さずに汚れたものを部屋の隅へ寄せ、赤ん坊をあやし続ける。
 泣き声が少しずつ細くなり、やがて喉の奥で小さく震えるだけになる。私は汚れた布団の端を握り、畳に残った湿りを確かめる。勝利はない。ただ、朝が来るまでの時間が、また一回ぶん減っただけだ。
 それでも私は、赤ん坊の背中を撫でる。温度が指に残る。まぶたが沈み、体が布団へ戻りかける。
「頼む。次は……次は、少しだけでいい」
 言い終える前に、泣き声が戻る。高さも距離も変わらない。さっきの起点が、そのままここにある。
「……また最初か」
 私は布団の端に指をかけ、暗い畳の目へ手探りで寄る。
(了)