第16回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 三月の陽だまり、消えない足跡 韓淑芳


第16回結果発表
課 題
悲劇
※応募数424編
選外佳作
三月の陽だまり、消えない足跡 韓淑芳
三月の陽だまり、消えない足跡 韓淑芳
父の記憶は、春の陽だまりに似ている。温かくて、けれどどこか頼りなく、すぐに形を変えてしまう。
私の父、健一は五十五歳という若さで若年性アルツハイマーを発症した。それはゆっくりと、しかし確実に、父の中から「私」という存在を削り取っていく静かな悲劇の始まりだった。
「春香、明日は卒業式だったな。新しい靴、用意してあるぞ」
夕食の席で父が微笑む。私は箸を止めた。
「お父さん、私の大学の卒業式はもう三年前だよ。今はもう、会社で働いてるの」
父は一瞬、きょとんとした顔をした後、「ああ、そうだったな」と照れくさそうに頭を掻いた。その笑顔の裏側で、父を構成する記憶のピースがまた一つ、音もなく崩れ落ちたのが分かった。
悲劇とは、血が流れることでも、叫び声を上げることでもない。昨日まで通じていた言葉が、今日、砂のように指の間をこぼれ落ちていく。その静寂こそが、何よりも残酷だった。
ある土曜日の午後、私は父を誘って近所の公園へ散歩に出た。
「ここは、お前が初めて逆上がりができるようになった場所だ」
父は鉄棒を指さして言った。その目は、今の私ではなく、幼い日の私を見ている。父の中に残っている私は、もう二十四歳の社会人ではなく、泥だらけの靴を履いた小さな少女なのだ。
「お父さん、覚えててくれたんだね」
私がそう言うと、父は満足げに頷き、ベンチに腰を下ろした。
しばらく並んで座っていると、父がふと私の顔を覗き込んだ。その瞳には、今までになかった深い霧がかかっているように見えた。
「……あの、すみません。お嬢さん」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「はい。なんでしょうか」
私は努めて冷静に、震える声を押し殺して答えた。
「家までの道を忘れてしまったようで。それと……私は、誰を待っていたんでしたっけ」
その瞬間、私の中の何かが音を立てて折れた。
目の前に座っているのは、間違いなく私の父だ。私の名前を付け、自転車の乗り方を教え、反抗期の私に戸惑いながらも弁当を作ってくれた、世界でたった一人の父親。
けれど、その瞳の奥には、もう私はいない。父は、自分を「お父さん」と呼ぶ誰かを探しながら、目の前の「見知らぬ女性」に助けを求めている。
これが、私たちの日常に訪れた悲劇の正体だった。
病気は父の体ではなく、父と私の間にあった二十四年間という「時間」を奪い去ったのだ。私は、父が生きているのに、父を失った。
「大丈夫ですよ。おじさん」
私は、溢れ出しそうな涙を飲み込み、精一杯の笑顔を作った。
「あなたの娘さんは、すぐそこにいます。あなたが忘れてしまっても、その人はずっと、あなたのことを覚えていますから。さあ、一緒に帰りましょう」
私は、自分を他人だと思っている父の手を引いた。父の手は、昔と変わらず大きくて温かかった。その温もりだけが、かつて私を愛してくれた父の残り香のようで、余計に胸を締め付けた。
春の柔らかな光が、公園の並木道を照らしている。
父は時折、「綺麗な花ですね」と、私に敬語で話しかけてくる。私はそのたびに、「そうですね」と他人として答える。
私たちは、二度と戻れない時間の断崖に立っていた。
けれど、父が私の名前を忘れても、私が父を愛しているという事実は変わらない。記憶が消えても、刻まれた愛は魂のどこかに澱(おり)のように沈んで、いつかまた光を放つと信じたかった。
家が見えてきた。
「ああ、ここだ。思い出しました。ありがとうございます、親切なお嬢さん」
父は玄関先で深々と頭を下げた。その丁寧な仕草が、かえって私を孤独にした。
私は鍵を開け、先に家に入ってから、振り返って父を招き入れる。
「おかえりなさい、お父さん」
父は一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐにふんわりと微笑んだ。
「ただいま。……なんだか、懐かしい匂いがする家ですね」
それは、失われた記憶の底で、父がまだ私を愛そうとしている証拠のように思えた。
夕暮れの陽だまりの中、私は父のために、少しだけ濃いめの茶を淹れる。
これが私の生きる「悲劇」だ。けれど、この悲劇は、かつて私たちがどれほど幸せだったかを証明する、最後の光でもあるのだ。
(了)