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第16回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 朝の出来事 今井亮太

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小説でもどうぞ
結果発表
第16回結果発表
課 題

悲劇

※応募数424編
選外佳作
 朝の出来事 今井亮太

  一
 高校二年の克己はその日早朝に家を出た。バス停に向かっていた。朝一番のバスに乗って学校に行って教室で今日の試験のチェックポイントをおさらいするつもりだった。今日の試験結果は重大である。三年生の進学クラスに入れるか普通クラスになるかが今日でほぼ決まる。この試験結果が人生の勝ち組と負け組左右する最初の布石になると克己は思っている。昨晩も遅くまで起きて全科目の重要ポイントをチェックした。それでも念のため朝早く教室に入って、もう一度、気になる部分をチェックするつもりである。朝一番に入った教室で短時間集中していると思わぬ見落としに気づくことがある。例えば古文の「たまふ」は四段活用と下二段で尊敬と謙譲が違って、本動詞と補助動詞もある。このあやふやさが気になる。
(こんなのは、教室でさっとやれば五分でチェック完了だ)
 英語には自信がある。ガールフレンドの洋子が過去と現在完了の違いを聞いてきたときもきちんと説明することができた。
「いいかい、その日、僕と君がキスをしたとしよう」
「……」
「そのことを日記に書く、日記に『キスをした』と書くのが過去形で『キスをする』と書くのが現在完了なんだ。現在完了にはときめきが残っている」
「……」
「やってみよう」
 克己は洋子にキスをした。
 実はこれが克己のファーストキスである。
 克己は平静を装いながら言った。
「簡単だろ」
 克己から逃れた洋子がまた聞いてきた。
「それで、現在完了と過去形の違いはなんなの?」
 克己は洋子と一緒に進学クラスに入ることを夢見ていたが彼女の成績では無理だろうと思っていた。
(あのキスはしかしうまくいった。でも、いまは抑制ヨクセイ……ふたりは同じ大学に入ってそこで青春、思いっきり……無理だろうなあ、彼女の学力では。まあ、彼女が女子大に行くのも悪くないか、女友達も紹介してもらって、かえって新鮮かもしれない)
 克己は洋子とのキスを振り払ってテストに心を集中しながらいつもの道を歩いた。すると用水にかかる橋のたもとに人が集まっている。欄干から川を覗き込んでいる。用水は昨夜の雨で水かさが増し、泥色をして光の縞を浮かべている。なんだろうと思いながら克己が橋に集まる人の合間を縫って進むと人々が話すのが聞こえた。
「酔っぱらって落っこちたんだろう」
「小便でもここからするつもりだったんじゃないか」
 橋の真ん中で克己が人と人の間からちらっと橋の下を見ると、白いコートを着た警官たちが用水から死体を岸に引き上げている。死体は口も目も鼻も服も泥だらけで、朝の光に照らさて縞目の緑がかった塗料のような液体で覆われている。顔はむくんで、引き上げられるとき泥でかたまった髪の毛や服からは絶えず水が流れている。そのとき、克己は死体と自分の目が合ったように思った。濁った、どろんとした、ガラスめいた眼である。その目が光の加減か克己を見つめていたように思える。
 目が合った瞬間克己はしまったと思った。

  二
「だってその眼がね」
 二十年前のそのときの出来事を思い出しながら、克己はひとり酒場で酒を飲んでいた。
 結局進学クラスにはゆけなかった。皮肉にも進学クラスに行ったのは洋子のほうだった。洋子は進学クラスで新しいボーイフレンドを見つけて二人は同じ大学に入学した。克己は希望した大学には入れず、就職した会社では今度こそとおもっていた課長の座を後輩に持ってゆかれた。後輩は申し訳なさそうに「先輩頑張ってください」と言った。愛していた購買部の美幸からは別れ話を持ち掛けられた。美幸はもともと妻帯者の部長とできていたとそのとき聞かされた。
 あの朝の出来事以来歯車が狂ってしまった。もう少し踏ん張ろうとするとあの時のことを思い出して力が抜ける。
 酒を飲みながら克己はさっきから独り言を言っている。
「だってその眼がね……言うだもん……いくら頑張ったって人生はこんなもんさってね」 
 店内は生ビールと料理を運ぶ店員の勇ましい声と騒音で活気に満ちている。 その中で、克己は独り酒を傾けていた。
(了)