第10回「小説でもどうぞ」最優秀賞 Let's meet again/山本絢
第10回結果発表
課 題
夢
※応募数291編
「Let's meet again」山本絢
朝方、裕司が目を覚ますと、カーテンの隙間から針のように細い朝日が差し込み、フローリングの床に日向道を作っていた。
裕司はベッドの上で寝たまま、軽く伸びをして、枕元の目覚まし時計をちらりと見て、再び目を閉じた。
さっきまで見ていた夢の余韻に浸るために。
しばらく夢の内容を思い浮かべていると、ピピ、ピピと規則的なアラームが流れ出した。
目覚まし時計のスイッチをオフにして、裕司は起き上がり、パジャマのまま、二階のリビングに向かった。
流行りの二階リビングにしたことを、裕司は軽く後悔していた。単純に目覚めて、まず階段を上るのが億劫だからだ。
「おはよう、珍しく早いのね」
妻の美絵が、オープンキッチンで朝食を作っていた。裕司は「おはよう」と挨拶をして、
コーヒーメーカーで温まっているコーヒーをマグカップに注ぎ、ソファにもたれた。
「今日、ハルの夢を見たよ」
トントンと、まな板の上で何かをカットしている音に紛れて、
「へえ、どんな夢?」
と、美絵が嬉しそうな声を出した。
テレビ台の横に置かれたチェストの上に、
ハルの位牌がある。週替わりで花と、生前、
好物だったとうもろこしやおやつを供えている。写真立てのすました顔が、微笑んでいるように見えて、裕司は口元をゆるめた。
「お父さん、元気? と抱きついてきた。可愛かったな」
香ばしいコーヒーを飲むと、胃袋が途端に温まり、裕司は隣の家の屋根を、ちょこちょこと歩くスズメを眺めた。窓辺にお座りをして、スズメを凝視していたハルの丸い背中を思い出す。
「私はハルの夢を見たことないのよ。夢自体、全然見ない。熟睡しているからかな」
美絵が軽やかな声で喋りながら、ダイニングテーブルに、くし形にカットしたりんごを盛り付けたガラスの皿を置いた。
トースターで焼いた食パンと、目玉焼きと
サラダの朝食を、裕司はダイニングテーブルで美絵と向かい合って食べ始めた。
「不思議なもので、夢の中ではハルと言葉が通じるんだ。真っ白な雲の中みたいな世界で、
色んな話をした。死んだのは肉体だけで、魂はどこかで生きているのかもな」
目玉焼きの黄身は適度に半熟で、バターを塗ったトーストの焼き加減も絶妙だった。
「色んな話って、どんな話をしたの?」
お互いに三十歳で結婚して、今年で二十一年になる。同じ歳の仲間は、子供が成人式を迎えたとか、結婚したとか、忙しそうで、自分たち夫婦は、パズルの最後のピースを失くしてしまったかのような欠落感を、いつも胸に抱えている。
「お母さんは元気だよとか、最近車を買い替えたんだとか、そんな感じ」
動物病院の往復と引っ越しの時しか、ハルは車に乗ったことがない。室内飼いの猫は生涯のほとんどを家の中で過ごす。その方が安全で長生きできるからだ。
「私も、ハルの夢を見たいな」
美絵が寂しげに微笑んだ。三十二歳の時、
子宮体癌が見つかり、子宮を全摘出した。自分はもう子供は望めない。あなたがもし子供を欲しいのなら、離婚しても構わない。残酷なセリフを、聖母のように言い放った美絵の、
強さと潔さに、裕司は心を打たれ、それなら尚更で、生涯を共にしようと誓った。
二人で生きていくと決めた矢先、好奇心で立ち寄った猫カフェで、保護猫の譲渡会のチラシを見て、猫を飼おうと思いついた。
そこでハルに出会った。野良猫が産んだ仔猫で、見つけた時、母猫は亡くなり、兄妹三匹で譲渡会に出されていた。茶トラ柄の雌で
裕司が人差し指で頭を撫でると、目を細めてミャアと鳴いた。美絵が「可愛いわね」と抱き上げた。三角の尖った耳と透き通った瞳が愛らしく、連れて帰らずにはいられなかった。
あれから十八年。
真綿のように軽かったハルは、人間の赤ん坊くらいの大きさになって、駆け足で歳を重ね、昨年の夏、永眠した。
裕司と美絵の一人娘は、両親に幸福な記憶と、深い絆を残してくれた。ハルがいたから、子連れの夫婦を見ても虚しくならなかった。
「今度、ハルの夢を見たら、お母さんにも会いに行ってあげなと、伝えておくよ」
美絵が目を輝かせた。
「ああ、そう、楽しみね」
ハルは生きている。夫婦の中で、ずっと。
裕司は朝方に見た夢を思い出す。真っ白な世界で、段々と影が薄くなっていくハルに「ハル! また会おうな」と声をかけた。
「もちろんだよ。お父さん」
ハルは潤んだ黒目で、ゆっくりと瞬きをして、雲の中に消えていった。
(了)
裕司はベッドの上で寝たまま、軽く伸びをして、枕元の目覚まし時計をちらりと見て、再び目を閉じた。
さっきまで見ていた夢の余韻に浸るために。
しばらく夢の内容を思い浮かべていると、ピピ、ピピと規則的なアラームが流れ出した。
目覚まし時計のスイッチをオフにして、裕司は起き上がり、パジャマのまま、二階のリビングに向かった。
流行りの二階リビングにしたことを、裕司は軽く後悔していた。単純に目覚めて、まず階段を上るのが億劫だからだ。
「おはよう、珍しく早いのね」
妻の美絵が、オープンキッチンで朝食を作っていた。裕司は「おはよう」と挨拶をして、
コーヒーメーカーで温まっているコーヒーをマグカップに注ぎ、ソファにもたれた。
「今日、ハルの夢を見たよ」
トントンと、まな板の上で何かをカットしている音に紛れて、
「へえ、どんな夢?」
と、美絵が嬉しそうな声を出した。
テレビ台の横に置かれたチェストの上に、
ハルの位牌がある。週替わりで花と、生前、
好物だったとうもろこしやおやつを供えている。写真立てのすました顔が、微笑んでいるように見えて、裕司は口元をゆるめた。
「お父さん、元気? と抱きついてきた。可愛かったな」
香ばしいコーヒーを飲むと、胃袋が途端に温まり、裕司は隣の家の屋根を、ちょこちょこと歩くスズメを眺めた。窓辺にお座りをして、スズメを凝視していたハルの丸い背中を思い出す。
「私はハルの夢を見たことないのよ。夢自体、全然見ない。熟睡しているからかな」
美絵が軽やかな声で喋りながら、ダイニングテーブルに、くし形にカットしたりんごを盛り付けたガラスの皿を置いた。
トースターで焼いた食パンと、目玉焼きと
サラダの朝食を、裕司はダイニングテーブルで美絵と向かい合って食べ始めた。
「不思議なもので、夢の中ではハルと言葉が通じるんだ。真っ白な雲の中みたいな世界で、
色んな話をした。死んだのは肉体だけで、魂はどこかで生きているのかもな」
目玉焼きの黄身は適度に半熟で、バターを塗ったトーストの焼き加減も絶妙だった。
「色んな話って、どんな話をしたの?」
お互いに三十歳で結婚して、今年で二十一年になる。同じ歳の仲間は、子供が成人式を迎えたとか、結婚したとか、忙しそうで、自分たち夫婦は、パズルの最後のピースを失くしてしまったかのような欠落感を、いつも胸に抱えている。
「お母さんは元気だよとか、最近車を買い替えたんだとか、そんな感じ」
動物病院の往復と引っ越しの時しか、ハルは車に乗ったことがない。室内飼いの猫は生涯のほとんどを家の中で過ごす。その方が安全で長生きできるからだ。
「私も、ハルの夢を見たいな」
美絵が寂しげに微笑んだ。三十二歳の時、
子宮体癌が見つかり、子宮を全摘出した。自分はもう子供は望めない。あなたがもし子供を欲しいのなら、離婚しても構わない。残酷なセリフを、聖母のように言い放った美絵の、
強さと潔さに、裕司は心を打たれ、それなら尚更で、生涯を共にしようと誓った。
二人で生きていくと決めた矢先、好奇心で立ち寄った猫カフェで、保護猫の譲渡会のチラシを見て、猫を飼おうと思いついた。
そこでハルに出会った。野良猫が産んだ仔猫で、見つけた時、母猫は亡くなり、兄妹三匹で譲渡会に出されていた。茶トラ柄の雌で
裕司が人差し指で頭を撫でると、目を細めてミャアと鳴いた。美絵が「可愛いわね」と抱き上げた。三角の尖った耳と透き通った瞳が愛らしく、連れて帰らずにはいられなかった。
あれから十八年。
真綿のように軽かったハルは、人間の赤ん坊くらいの大きさになって、駆け足で歳を重ね、昨年の夏、永眠した。
裕司と美絵の一人娘は、両親に幸福な記憶と、深い絆を残してくれた。ハルがいたから、子連れの夫婦を見ても虚しくならなかった。
「今度、ハルの夢を見たら、お母さんにも会いに行ってあげなと、伝えておくよ」
美絵が目を輝かせた。
「ああ、そう、楽しみね」
ハルは生きている。夫婦の中で、ずっと。
裕司は朝方に見た夢を思い出す。真っ白な世界で、段々と影が薄くなっていくハルに「ハル! また会おうな」と声をかけた。
「もちろんだよ。お父さん」
ハルは潤んだ黒目で、ゆっくりと瞬きをして、雲の中に消えていった。
(了)