第8回「小説でもどうぞ」選外佳作 大人の麦茶/翔辺朝陽
第8回結果発表
課 題
うそ
※応募数327編
選外佳作「大人の麦茶」翔辺朝陽
「しげじいーー」
リビングのソファで寝転んでいる所へ四歳になる孫の陽太が駆け込んできた。近くに住む娘の美穂が孫を連れて遊びに来たのだ。
「もう感染症のせいでどこも閉まっていて、行くところがなくて。急にごめんね」
美穂が妻の恵子に謝っている。陽太は早速俺の膝の上に飛び込んできた。
俺の名前は茂といい、陽太から『しげじい』と呼ばれていた。どうやら陽太は俺のことを友達の一人か家来と思っているふしがある。俺にとっても陽太は血を分けたただ一人の男の孫で、自分の分身のように感じていた。
「今日、旦那が仕事で遅くなるっていうから夕飯一緒に食べていっていいかな?」
美穂が小首をかしげながら手を合わせて恵子に懇願している。
「かまわないけど、買い物行かないとあなたたちの食べるものがないわ」
「じゃあ、私も一緒に買い物行く。久しぶりに息抜きしたいし。お父さん、陽太お願い」
恵子と美穂は女同士すぐ意気投合し、楽しそうに買い物に出かけていった。
二人が出かけた後で、俺の中で抑えようのないある衝動が芽生え始めた。
俺は陽太が大好きなアニメの録画をテレビに映すと、「ちょっとこれ見ててくれ」と言って台所に行き、グラスに氷を入れそっと自分の部屋に向かった。部屋に入るなり、本棚の奥から隠し持っていたウィスキーの小瓶を取り出しグラスに注いだ。久しぶりの酒の香りに頭がくらくらする。俺は若い時から酒に目がなく、健康診断でも肝臓の数値が極端に悪く、酒はドクターストップがかかっていた。しかし妻の監視の目がないこんなチャンスを逃す手はない。俺は一口、二口とオンザロックを口に運び、至福のひと時を満喫していた。
ふと背後に人の気配を感じた。あわてて振り向くと部屋の入口に陽太が立っている。
「しげじい、何飲んでるの?」
一人でずるいと言わんばかりの顔つきだ。
「あ、いや、麦茶だよ、麦茶」
咄嗟に嘘をついた。
「麦茶? 僕も飲みたい!」
陽太はそう言うなり俺に近づいてきてグラスを覗き込んだ。
「あ、お酒だ。これお酒でしょ?」
「違う、違う、これは麦茶。大人の麦茶だ」
「うそだぁ。あのね、しげじい、噓つきは泥棒の始まりってママが言ってたよ」
すでに酒の盗み飲みで泥棒の始まりのような真似をしている自分が恥ずかしくなる。
俺はつまみにしていた一口チョコを口止め料として三個ばかり陽太にあげると、陽太はにっこり笑って部屋を駆けて出ていった。
しばらくして恵子と美穂がいっぱい食材を買い込んで帰ってきた。家に入るなり、「何かお酒臭くない?」と美穂が言い出した。
それを聞いた恵子が鬼の形相でにじり寄る。
「あんた、お酒飲んだでしょ?」
「うん? な、なんのこと?」
俺はとぼけながらも必死に言い訳を考える。
「あ、陽太に感染症うつしちゃいけないと思って触りそうなところを消毒したんだよ」
俺は努めて平静を装って答えた。
「何か怪しいわね……」
恵子は全く信じていない様子だった。すると美穂が追い打ちをかけるように、「じゃあ、陽太にも訊いてみよう」と言い出した。
まずい、陽太にはばれている――と思う間もなく美穂が陽太に正対して「しげじい、お酒飲んでなかった?」と訊いた。
ああ、万事休すだ。陽太に本当のことを言われ、恵子・美穂連合軍にコテンパンにやられる自分の姿を想像し身構えた。
「うーんとねぇ、あのねぇ……」
陽太が体をくねくねさせながら何て言おうか迷っている。俺は咄嗟に陽太に向かって何回かウィンクした。殿、頼む、武士の情け。
「あんた何、目をパチクリしているのよ」
恵子に指摘され、自分はウィンクができなかったことに気付く。やっぱりだめか……。
「あのね、しげじいはね」陽太が口を開いた。
「お酒飲んでないよ。麦茶飲んでた」
おおぉ、ナイスフォロー。さすが俺の孫。
「でもねぇ、大人の麦茶だったから、僕は飲んでないよ」
ああ、大人の麦茶は余計な一言だあ――
すかさず、「孫をたぶらかしてこそこそお酒飲むなんてしょうもないじいさんだよ、まったく」と、恵子に思い切り尻を叩かれた。
「痛たたたぁ――」
大袈裟に痛がる俺を見て陽太が大笑いしたので、恵子も美穂も呆れて笑いだした。
陽太が俺をかばってくれた。成長している孫の姿を喜ぶと同時に、つまらないうそをつかせてしまったことを心底情けなくも思った。
――陽太、ごめんな。
口の周りをチョコレート色に染めながら笑っている陽太に俺は心の中で謝った。
(了)
「もう感染症のせいでどこも閉まっていて、行くところがなくて。急にごめんね」
美穂が妻の恵子に謝っている。陽太は早速俺の膝の上に飛び込んできた。
俺の名前は茂といい、陽太から『しげじい』と呼ばれていた。どうやら陽太は俺のことを友達の一人か家来と思っているふしがある。俺にとっても陽太は血を分けたただ一人の男の孫で、自分の分身のように感じていた。
「今日、旦那が仕事で遅くなるっていうから夕飯一緒に食べていっていいかな?」
美穂が小首をかしげながら手を合わせて恵子に懇願している。
「かまわないけど、買い物行かないとあなたたちの食べるものがないわ」
「じゃあ、私も一緒に買い物行く。久しぶりに息抜きしたいし。お父さん、陽太お願い」
恵子と美穂は女同士すぐ意気投合し、楽しそうに買い物に出かけていった。
二人が出かけた後で、俺の中で抑えようのないある衝動が芽生え始めた。
俺は陽太が大好きなアニメの録画をテレビに映すと、「ちょっとこれ見ててくれ」と言って台所に行き、グラスに氷を入れそっと自分の部屋に向かった。部屋に入るなり、本棚の奥から隠し持っていたウィスキーの小瓶を取り出しグラスに注いだ。久しぶりの酒の香りに頭がくらくらする。俺は若い時から酒に目がなく、健康診断でも肝臓の数値が極端に悪く、酒はドクターストップがかかっていた。しかし妻の監視の目がないこんなチャンスを逃す手はない。俺は一口、二口とオンザロックを口に運び、至福のひと時を満喫していた。
ふと背後に人の気配を感じた。あわてて振り向くと部屋の入口に陽太が立っている。
「しげじい、何飲んでるの?」
一人でずるいと言わんばかりの顔つきだ。
「あ、いや、麦茶だよ、麦茶」
咄嗟に嘘をついた。
「麦茶? 僕も飲みたい!」
陽太はそう言うなり俺に近づいてきてグラスを覗き込んだ。
「あ、お酒だ。これお酒でしょ?」
「違う、違う、これは麦茶。大人の麦茶だ」
「うそだぁ。あのね、しげじい、噓つきは泥棒の始まりってママが言ってたよ」
すでに酒の盗み飲みで泥棒の始まりのような真似をしている自分が恥ずかしくなる。
俺はつまみにしていた一口チョコを口止め料として三個ばかり陽太にあげると、陽太はにっこり笑って部屋を駆けて出ていった。
しばらくして恵子と美穂がいっぱい食材を買い込んで帰ってきた。家に入るなり、「何かお酒臭くない?」と美穂が言い出した。
それを聞いた恵子が鬼の形相でにじり寄る。
「あんた、お酒飲んだでしょ?」
「うん? な、なんのこと?」
俺はとぼけながらも必死に言い訳を考える。
「あ、陽太に感染症うつしちゃいけないと思って触りそうなところを消毒したんだよ」
俺は努めて平静を装って答えた。
「何か怪しいわね……」
恵子は全く信じていない様子だった。すると美穂が追い打ちをかけるように、「じゃあ、陽太にも訊いてみよう」と言い出した。
まずい、陽太にはばれている――と思う間もなく美穂が陽太に正対して「しげじい、お酒飲んでなかった?」と訊いた。
ああ、万事休すだ。陽太に本当のことを言われ、恵子・美穂連合軍にコテンパンにやられる自分の姿を想像し身構えた。
「うーんとねぇ、あのねぇ……」
陽太が体をくねくねさせながら何て言おうか迷っている。俺は咄嗟に陽太に向かって何回かウィンクした。殿、頼む、武士の情け。
「あんた何、目をパチクリしているのよ」
恵子に指摘され、自分はウィンクができなかったことに気付く。やっぱりだめか……。
「あのね、しげじいはね」陽太が口を開いた。
「お酒飲んでないよ。麦茶飲んでた」
おおぉ、ナイスフォロー。さすが俺の孫。
「でもねぇ、大人の麦茶だったから、僕は飲んでないよ」
ああ、大人の麦茶は余計な一言だあ――
すかさず、「孫をたぶらかしてこそこそお酒飲むなんてしょうもないじいさんだよ、まったく」と、恵子に思い切り尻を叩かれた。
「痛たたたぁ――」
大袈裟に痛がる俺を見て陽太が大笑いしたので、恵子も美穂も呆れて笑いだした。
陽太が俺をかばってくれた。成長している孫の姿を喜ぶと同時に、つまらないうそをつかせてしまったことを心底情けなくも思った。
――陽太、ごめんな。
口の周りをチョコレート色に染めながら笑っている陽太に俺は心の中で謝った。
(了)