高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 アパートの名前/岡本香月
岡本香月
引っ越したばかりで部屋の中は片づいていない。見かねた妻は荷物の整理を手伝い始める。娘とはいえ女性のものに手を出すのはためらわれ手持ち無沙汰になった高村は、ワンを連れて周辺の探索方々散歩に出る。
都内にある自宅から一時間、住宅と果樹園等適度な緑の混在する地域で環境はいい。高村は一つ先の交差点に出る度に、あっちはどんな感じなんだろう、と興味をそそられ足の赴くまま右へ左へと曲がりながら先へ進んでいく。そこには、古くからの市街地である自宅近くとは異質な開発途上の新たな世界が広がっている。
きりがないのでそろそろ戻ろうかと思い振り返ったところで、方向がよくわからなくなっていることに気づく。近くを感じのよさそうな若い女性が歩いてくる。笑みを含んだ視線がワンに向けられている。道を尋ねるチャンスだ、と思う。
しかし娘のアパートの洋風の長い名前が思い出せない。ええと、なんとか、なんとかだったっけ。そのなんとかが出てこない。なぜあんなややこしい名前をつけたのだろう。カーナビに入力した住所もよく覚えていない。つまり手がかりが何もない。結局声をかけられないまま、その女性は通り過ぎてしまう。
仕方なくカンを頼りに歩き回るが、むしろ完全に方向を見失う。少々疲れたところで運よく小さな公園をみつけ、ワンを膝に乗せてベンチで休む。しかし遊具で子供を遊ばせているお母さんをはじめ近隣住民らしい人々が胡散臭そうな目でこちらを見る。
不審者だと思われているのだろうか。そういえば若い頃地方に単身赴任中に警察官に職務質問されたことがあった。高村は普段、着るものにはあまり気を使わない。あの時もそうだったが今日もラフなジャージ姿だ。しかし人間大切なのは着るものではなく中味ではないか。おれはその名を聞けば社員が皆緊張する、れっきとした上場企業の人事部長の高村なのだ、と心の中で叫ぶ。
ところで不審者がこんな犬を連れていることはない。ふと冷静になった高村は、今は自分が人事部長の高村であることよりも、珍しい毛色のダックスフントの飼い主であることの方が説得力があるのかもしれないと考える。高村は頼もしい思いで、ワンの品のいい横顔を眺める。断じて不審者ではない。
さっきからじっとこちらを見ていた中年女性が意を決したように近づいてきて、この公園には犬は連れて入れないことになっていると告げる。高村はあわてて立ち上がり、逃げるように外に出る。うちの部にちょうどあんな感じの悪いパートの女性がいたっけ、と思う。今度クビに、いや、それは関係ないか。
それにしてもこんな時はどうすればいいのだろう。高村はワンと歩きながら考える。交番にでも行けばいいのだろうか。
しかし名前と住所、家の電話番号くらいしか手がかりはない。自宅には誰もいない。携帯電話は娘のアパートに置いてきてしまった。その自分の番号は以前に一度変えてから覚えていないし、妻と娘の携帯電話番号も登録してあるだけだ。そもそも交番なんてどこにも見当たらない。
会社の電話番号なら覚えている。しかし今日は休日で誰もいないだろう。もっとも今は十円玉一つ持っていない。
あてもなく歩いているうちに日が陰ってくる。ずいぶん遠くまで来てしまったような気がする。急速に気温が下がってくる。ジャージは薄手なので肌寒い。ワンにも疲労の色が見え、心なしか歩みも遅くなる。
高村は何もできないもどかしさと無力感に苛まれる。しかし、いや、ここでしっかりせねば、と思い直す。これまでも幾多の困難を乗り越えてきたではないか。だからこそおれは社内に名の通る人事部長になれたのだ。同期の半数以上は未だに課長以下だ。
高村は、少し見晴らしのいい所をみつけてあらためて周囲を見回してみる。ここを起点に順に一角ずつ拡大しながら四方を回ってみよう。
そう思ってまず夕焼け空に向かって歩き、次の交差点を曲がるとすぐ先に娘のアパートがあるのを発見する。一瞬、涙が滲むほどほっとする。遭難していたのを自力で下山した時のような気分になる。どうやら近くを堂々巡りして歩いていたらしい。目の前で見るとさしてややこしくもないように感じるアパートの名前が懐かしい。
近くに白い自転車が止まっていて、そばにいた警察官がこちらに向かってくる。妻と娘が呼んだに違いない。高村は内心、余計なことをしやがって、と思うが、とりあえず気づかないふりをしてワンを抱き、逃げるように娘のアパートに入る。
(了)