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高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 名前を呼ぶよ/ときるのままん

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ

第2回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 佳作

名前を呼ぶよ
ときるのままん

 毎年、九月の敬老の日にはみんなで集まり、おじいちゃんとおばあちゃんの誕生会をする。二人とも、九月生まれのおとめ座だ。初孫の僕が生まれたことをきっかけに、始まったらしいのだが、それは、僕が大学に通うために、東京で一人暮らしを始めた後も続いていた。時期が近づくと、

「もうすぐ、おじいちゃんとおばあちゃんの誕生会だから、必ず帰省しなさい」と、母さんからメールが入り、一万円が送金される。急行電車を使えば、一時間程で帰ることができる距離だから、交通費としては十分だ。多少都合が悪くても、「行かない」なんて気持ちにならないのは、やっぱり二人が大好きだからだと思う。

 僕が生まれた時に六十歳だったおじいちゃんは、今年八十二歳になった。おばあちゃんは、一歳年上だ。母さんから送金された一万円の残りと、アルバイトでもらった給料を少し足して、誕生日のプレゼントと、東京でしか手に入らないうまいものを買い、みんなのお土産にする。

 誕生会に集まったのは、今年も、僕の両親と妹、母さんの妹一家だった。小学二年生の従弟がいるおかげで、ハッピーバースデーソングの歌い手には困らない。五年前、中学二年生になった妹は「恥ずかしい。もう嫌だ」と突然引退を表明した。無邪気に響く従弟の歌声は、いつまで聞くことができるのだろう。僕がまた歌うことになったら嫌だなぁと、ぼんやり心配になってきたとき、久しぶりに会ったみんなの様子がおかしいことに気が付いた。昨年まで、「一緒に座って食べようよ」と誘っても台所に立ち続け、あれこれと世話を焼いていたおばあちゃんの声が、全く聞こえない。おじいちゃんの隣でうつむいたまま、丸くなって座っている。

「俺は、ばあさんの、鈴を転がしたような声に惚れたんだ。名前を呼んだときの『はあい!』って返事が可愛いらしくてさ」

 おばあちゃんに、おじいちゃんの言葉は届いていない。

「おばあちゃん、元気がないけど、どうかしたの?」たまらずこっそり母さんに訪ねると

「最近、物忘れがひどくてね。それに、あまり話さないのよ。もう少し検査をする予定なのだけど、認知症みたい」と教えてくれた。

 人が老いることは宿命だと、知っているつもりだった。目尻にたまった涙を落とすまいと、僕が天井を睨みつけていることに気付いたおじいちゃんは、

「まぁ、やれることは、なんでもやってやるさ。俺は、本当に幸せだったからな。先月くらいから、呼んでも返事をしなくなったことが、辛くて仕方がない。声が聞きたいんだ。おい、ばあさん、ばあさーん」

 おばあちゃんは、「どちらさま?」とでも言いたげにおじいちゃんを一瞥しただけで、黙々と、ケーキを食べている。それを見ていたみんなが、それぞれの頭の中で、おばあちゃんとの思い出を回顧しながら、「まま」「お義母さん」「かあさん」「ばあちゃん」「おばあちゃん」「ばあば」と、声をかけ続けた。しかし、おばあちゃんは、どこ吹く風だ。

「ばあさんとは、同じ会社に勤めていたことはみんな知っているよな。青年部の行事で知り合ったんだよ。鼻の穴が、天井を向いているって、裏でぶーこってあだ名を付けてる同僚もいたなあ。でもな、ちょっと面倒な仕事を頼んでも、いつも『はあい!』って、満面の笑みで返事をしてくれた。それが可愛いらしくて、顔を見かけるたび、用もないのに名前を呼ぶようになってさ。…あの日も元気に『はあい!』と返事をしてくれたのだけど、その後きりっと俺を睨んで、『山田さん、用がないなら名前を呼ばないで』と、とうとう叱られてしまった。どうすればいいのかわからなくなって思わず、あなたの『はあい』が聞きたくて仕方がない。あなたの『はあい』がないと、俺は幸せになれない。毎日毎日、ずっとあなたの名前を呼びたいって、うっかり告白してしまったんだ」

 おじいちゃんのしわしわの顔は真っ赤だ。

「『用もないのに名前を呼ぶな』って言われたとき、おじいちゃんはおばあちゃんのことをなんて呼んでいたの?」

「さっちゃん…、違うな。あの頃はまだ、佐々木さん、佐々木幸子さん!…幸子さんだ!幸子さん!幸子さん!」

「はあい!」プレーリードッグが、巣穴から顔を出すように、おばあちゃんは、すっと背筋を伸ばして頭を持ち上げた。

「嫌だなぁ、徳次郎さん、私の今の名前は、あなたと同じ山田ですよ。頭、大丈夫?」

 おばあちゃんは心配そうな顔で、おじいちゃんを見つめた。おじいちゃんは、おばあちゃんが怒りだすまで、何度も何度も、おばあちゃんの名前を呼び続けた。

(了)