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高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 女は愛を口にする/西田美波

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ

第1回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 佳作

女は愛を口にする
西田美波

「女はやっぱり愛嬌がないと。ねえ?」

 突然隣に割り込んできた赤ら顔の学年主任がそれまで盛り上がっていた女性陣の話をぶった切り、明らかに私に向けた言葉に同意を求めてきた。作り笑いで弧を描いた唇の隙間から静かに息を吐く。前髪の生え際あたりの筋肉を持ち上げるようにして緩ませた表情は、少しは柔らかく見えるかもしれない。

「彼氏いるんだったよね?」

「ええ、まあ、恋人は」

「ならもうちょっと愛嬌振りまくといい。それで嫌な気分になる男なんていないから。真面目なのはいいことだけどね、でもねえ」

 自分の言葉に深く頷き、「あ、僕ビール」と店員に呼びかける。

「この仕事はただでさえ出会いが少ないんだし、逃げられたら困るでしょう。始まりって漢字は女のム口って書くの、わかる? 無口でいると愛想尽かされて破局の始まりになるよ。ほら、お腹撫でさせてもらって、後に続けるよう運気分けてもらったら?」

 来週から産休に入る後輩のせり出たお腹を一瞥する。女の子だと聞いた。将来こんな酔っ払いの相手なんてさせられないといいなと思う。話に適当に相槌を打ち、帰りに買う肉まんのことだけを考えてやり過ごす。

 三次会を断り喧騒から抜け出せた頃にはけれどすっかり疲れ果て、コンビニ前でたむろする男たちの視線から逃れるように足早に通り過ぎた。しんとした道に響く自分のヒールの音を聞きながら時折後ろを振り返り家路を急ぐ。途中、恋人から電話があり、終電で泊まりに来ていいか訊かれ驚いた。洋菓子店で働いているから朝が早く、翌日仕事のときはほとんど泊まりに来ないのに。

「ごめんねこんな時間に」

 きっかり四十分後に玄関に現れた恋人——彼女の身体は夜風で冷えていた。私を抱きしめ、「あったかぁい」とへへへと笑う。

 結局私たちは一緒にお風呂に入ってすぐに歯磨きをし、ベッドに潜り込んだ。だらだらおしゃべりを続け、飲み会の話になった。

「どうだった? 主任語録また増えた?」

「愛嬌がどうとか。始まりって漢字の語源は女の無口だとか、いい加減なこと言ってた」

 鼻で笑い、彼女がスマホを操作する。その指が止まり、へえ、と呟いた。

「主任ほんと嘘つきじゃん、先生なのに。始まりの語源は女が命を生み出すことだって」

 返事に詰まる。私たちの関係はなにも始まっていないと誰かに言われた気がした。どれだけ一緒にいても、私たちと血の繋がった命を生み出すことはできない。

「つまりはさ、愛なんじゃない?」

 そんな私の気持ちを読み取ったのか、彼女が歌うように言う。

「愛?」

「うん。愛が生まれてすべては始まるの」

「その考え方、いいかも」

 笑い合う声がやがて床に沈み、無言が二人の間をたゆたう。

「あのさあ……」

 彼女が言い淀んだ。ここ最近どこか落ち着きがないことに気付きながら素知らぬふりをしてきた。けれど心の隅ではいつだって準備をしていた。彼女と付き合い始めた日からずっと。さよならを言われる準備。別れを受け入れる準備。潔くこの愛を道の傍らに置き去る準備。始まりがあれば終わりがある。子供の頃からいつだって私は終わりを考える子だった。そうすれば本当にその時がやってきても傷は小さく済む。やっぱりね、そう言って諦められる気がしていた。

「一緒に、住まない?」

 思いがけない言葉に瞬きを繰り返し、視線を彷徨わせてからようやく彼女を見つめる。

小さく柔らかな手。繊細なお菓子を生み出す手。おそらくは私の全てを知る手。それが目に見えてわかるほどに震え、顔は赤い。

「今すぐ返事が欲しいわけじゃないの。私と違ってあまりカムアウトしてないし、こういうのすごくハードル高いのわかってる。いくらでも待つ、待てるよ。もし返事がノーならこれまで通りの付き合い方をしていけばいい。だから無理はせず、考えてみてほしい」

「……うん」

「ごめん、寝る前に言うのはずるかったね」

「そんなふうに思わないよ」

 部屋の電気を落として身を寄せ合う。息が混じり、鼓動がひとつのリズムになり、体温が輪郭を曖昧にする。どちらからともなくおやすみと言い、寝息が聞こえてきた。

 これが日常になるのを想像してみる。それはあまりに自然だった。おはよう、そしておやすみ。日々の想像はどこまでも続いてゆく。諦めて手放すことなんて最初からできるはずがなかったと、今更のように思い知る。

 上下するなだらかな肩に鼻を押しつけ、思い切り息を吸う。そっと唇で触れ、愛を呟いて静かに目を閉じた。

(了)