高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 ワクチン/緋片イルカ
緋片イルカ
「ナカヤマヒロキさんの携帯電話で、お間違いありませんね?」
私は朝の出勤の途中で、その電話を受けた。
番号は非通知で、女性の声は慇懃無礼な話し方だった。
「ナカヤマですが誰です? どうして、私の番号を?」
私の質問は無視された。
「今、どこにいらっしゃいますか?」
「どこって、新宿駅のホームですけど……」
「まだ駅ですか? 急いでください。順番があるんですよ」
「あの、何の話でしょうか? あなたは一体、誰なんですか?」
「三十分以内に会場まで来てください。それ以上、遅れると大変なことになります。いいですね?」
一方的に電話を切られ、訝っている私にサラリーマンが声をかけてきた。脂ぎった顔の中年だ。
「きみ、打ってないのか?」
「打つ?」
「ワクチンだよ。すべての国民に接種が義務付けられてるだろ。だいたい、打たずに電車に乗るなんて非常識じゃないか」
私を睨みつけながら中年男は去っていた。心なしか、周りの人々も私を横目で見やり、距離をとっているような気がする。
改札を抜けるとメールを受信した。上司からだった。仕事は有休扱いにするので、至急、接種会場に行くようにと書かれていて、ご丁寧に地図まで添付されていた。文末には、未接種なら早く申告してくれないと困る、会社の責任にされてしまうという批難までついていた。状況を確認しようと、上司に電話をかけたが出てもらえなかった。
「ナカヤマヒロキさんですね?」
「はい、そうですが、ここって……」
男は書類から、私の生年月日や住所、血液型、病歴や喫煙の有無まで読み上げた。
「お間違いありませんか?」
「ええ……でも、その書類は?」
手を伸ばすと「個人情報なので」と隠して、中へ入るように促した。
「すみませんが、ここは何なんでしょうか? どうして私の健康記録が? ワクチンって、一体、何のワクチンなんです?」
「質問でしたら医師に直接して下さい。僕はただの受付ですから」
看護師にも訊いたが、やはり何も答えてはくれなかった。
しばらくすると医師がやってきて体調について素早く質問された。問題がないというと腕を出すように言われた。医師は注射器を準備している。
「あの、これは何のワクチンなんですか?」
医師はまじまじと私の顔を見てから笑った。冗談だと思われたらしかった。
「さあ、腕を出してください。後が詰まってるんで」
訳もわからないまま、ワクチンなる液体を注入された。
電車を降りると、ホームで怒鳴り散らしている男がいた。電話口に叫んでいる。
「ワクチン? 何の話だ?」
昨日までの私を見ているようだった。私は近づいていって、男の肩を掴んだ。
「こんなところで大声を出すなんて迷惑だろ。黙って打てばいい。みんな、打ってるんだ。考える必要なんてない」
(了)