高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 さよなら、フリッツ・フォン・エリック/吉田猫
吉田猫
あたしと篠原さんは荒川沿いのマネキン工場で働いている。あたしは美術の専門学校を出ても就職口が無くて、このマネキン工場で人形にメイクする仕事を見つけてアルバイトをしてたら工場長に腕が良いってスカウトされて、正社員になって二年くらいになる。篠原さんはマネキン塗装の職人でこの道三十年のベテランの独身中年男だ。頭も少し薄い。
あたしが何故こんな中年男の篠原さんと仲が良くなったかというと。はじまりは「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックだった。
社員になった初めのころは、篠原さんがいつもあたしのことを見ているような気がしてちょっと嫌だった。同僚で仲のいいユキちゃんなんかは、絶対に篠原さんはいやらしい目であんたのこと見てるよ、とか言うし、確かに工場でふと顔を上げると遠くの作業場にいる篠原さんと目が合って、あっちのほうが慌てて目をそらしているみたいなことが何回もあった。
初めて篠原さんと話をしたのは社員の親睦会のときだった。年二回の親睦会は会社の会議室にお菓子とかジュースとか持ち込んでしらふで簡単なパーティみたいなことをやる日だ。つまらなくてあたしはユミちゃんと隅っこにいて二人でお喋りしてた。そしたらユミちゃんが下を向いて、あの人、ほら来てる来てるって小さな声でいうから何かと思って振り返ったら後ろに篠原さんが立ってた。わあって驚いてたらユミちゃんいなくなってるし、いつの間にか篠原さんと二人で立ってて、あたしは目でユミちゃんを真剣に探したけれどあの子はすでに手の届かないところにいてこっち見て笑ってた。あたしはどうしていいのかわからなくて、お愛想笑いでその場をなんとかしようとしたけれど、たぶんなんともなってなかったと思う。
「あのさ……内村さんは……」
あたしの名前を知ってたことも驚きだったけど、その後の間がすごく長くて一分くらいたったような気がした。そして突然言った。
「内村さんのさ、一番の試合は何?」
最初はこの人何言ってるんだろう? と思ったけれど、すぐに気が付いた。篠原さんはあたしにプロレスのこと訊いていたのだ。それがわかったらあたしは自然と答えてた。
「66年の12月、ジャイアント馬場のフリッツ・フォン・エリック戦……かな」
「そりゃ渋い。渋すぎるなあ。馬場の眉間に鉄の爪が食込んで流血するやつだ」
それからはもうアイアンクローの話とかが止まらなくてずっと喋ってた。だってこんな話できる人はこの世にいないと思っていたし、もしいたとしてもあたしの半径百キロ以内には絶対いないはずだった。
あたしがプロレス好きなことを何故知ってるのって訊いたら、工場長から聞いた、と篠原さんはさらっと言う。正社員になるとき雑談で工場長に趣味は? て聞かれ昭和のプロレスですって軽い気持ちで答えたことを思い出した。口の軽い男だ。それを聞いた篠原さんはあたしのことをいつも見ていたらしい。
次の日からは昼休みには篠原さんと毎日テーマを変えてプロレスの話をした。今日はサンダー杉山、明日はシャチ横内って。回りからはかなり変な目で見られてることは知ってたけれど、もう隠すのも面倒臭いし、事あるたびにあたしは宣言した。「あたしも篠原さんも昔のプロレスが死ぬほど好きです」と。
あたしたちはいつの間にか身の上の話もするようになっていて、篠原さんにはずっと昔、奥さんがいたことも知ったし、あたしも好きな人がいて結婚したいなんて話したこともあった。でもいつも途中からプロレスの話になってしまうのが常で、もっと詳しく聞いておけばよかったって今になって思う。
「寂しくなるな」篠原さんがぽつりと言う。
また遊びに来るねって笑ってはみたものの、結婚相手の彼氏が家業を継ぐためあたしも東京を離れることになるし、篠原さんと会うことはもうないだろう。彼氏はプロレスなんか興味ないから二度とこんな話をすることはないか、と思うとあたしも鼻の奥がじんと熱くなって笑いながらそっと目頭を拭いた。
はじまりの日はフリッツ・フォン・エリックだったから会社を辞める最期の日は絶対アイアンクローの話をしよう、と今決めた。
ねえ、そうしようよ、篠原さん……。
さよなら、フリッツ・フォン・エリック。
さよなら、あたしの「鉄の爪」。
(了)