第4回「小説でもどうぞ」佳作 あぶく立った、消えてった/稲尾れい
第4回結果発表
課 題
記憶
※応募数292編
「あぶく立った、消えてった」稲尾れい
手探りでシャワーのコックをひねってお湯を止め、うつむけていた首をもたげた。その途端、首全体を下にぐっと引っ張られるような感覚に、目を閉じたまま目まいを覚える。私の髪はもうすぐ腰に届く長さで、濡らすと結構重くなる。
その場に立ったまま目まいが収まるのを待っていると、入れ替わるように困惑が湧いてきた。自分がたった今シャワーで洗い流したのは、シャンプーの泡だったのか、それともその後のコンディショナーだったか。あるいは、まだ髪を濡らしただけで、これから洗い始めるところだった? その部分の記憶までお湯で流し去ってしまったかのように、たった今さっきのことが思い出せない。
直近に自分がしていたことを忘れてしまうのは、今までにも時々あった。特に疲れが頂点に達している時。例えば今のように、仕事が繁忙期を迎える三月の年度末の時期。髪を二度洗ってしまったり、歯を二度磨いてしまったりする。夕食を二度食べてしまったことは流石にないけれど、食後に紅茶を飲もうと思ってマグカップにティーバッグを入れ、お湯を注いだまま忘れて、翌朝にコーヒーのような色になった紅茶をキッチンの片隅で発見したことがあった。もったいなくてちょっと飲んでみたけれど、あの紅茶は本当に渋かった。思わず苦笑いする。こんな風に、もっと昔のことはちゃんと思い出せるのに。
仕方がないのでもう一度シャンプーからやり直すことにする。目を閉じたままゆっくりと床に片膝をつき、定位置である壁際に向かって手を伸ばした。そこに二つ並べて置かれた容器の、側面にギザギザが付いている方を引き寄せると、中身を手のひらに取り、少し泡立ててから髪全体に馴染ませる。面白いように泡立ってゆく感触があった。これはやはり、二度目に髪を洗う時の感触だ。既に頭皮の油分が洗い流され、髪も充分に水分を含んだ状態だから、泡立ちが良くなるのだとどこかで聞いたことがある。どんどん膨らむ泡が、髪から流れ落ちて肩や背中に積もってゆく。それを温かいと感じている内に、全身が泡まみれになった。頭の先からつま先までを濃密な泡にすっぽりと包み込まれ、呼吸もままならない。もがこうにも指一本動かすことが出来なくなっていた。息苦しさはやがて強い眠気に変わってゆき、意識が途切れた。
気が付くと、私は体を丸めた格好で浴槽の中に横たわっていた。頭の先からつま先まで、湯船に浸かっていたように濡れているけれど、浴槽はどうやら空っぽのようだ。私は両手のひらで顔を拭い、ゆっくりと目を開けた。
浴室の天井には淡い橙色の電灯がともり、ちょうどその下辺りに女性が立っていた。私と同じく、二十代後半といったところだろうか。たった今浴室に入って来たばかりらしい彼女は、両腕で自身を抱きしめるようにして二の腕をこすり、ぶるりと震えた。寒いのかな、と私が思った瞬間、天井灯がチラチラと点滅した。女性は気味悪そうな表情でそちらを見上げ、そのまま私の存在には構わずにシャワーヘッドの下に立ってコックをひねった。
私は浴槽の縁に両肘を乗せ、改めて浴室を見回した。壁際の定位置に私のシャンプーとコンディショナーの容器はなく、代わりに見慣れない詰め替え容器用の壁掛け式ディスペンサーが並べて吊り下げられている。
「さむ」
女性は呟き、シャワーの水温を上げた。
彼女が寒そうにしているのは、私がここにいるせいかも知れないな、という考えが不意に浮かんだ。その途端、浴槽の縁に乗せていた肘から体温がすっと消えた。私はもう随分長い間、ここで同じことを繰り返しているのだということを思い出した。今が本当はいつなのか分からないけれど、少なくとも私が最後に繁忙期を過ごしたあの年の三月ではない。
連日の残業に疲労困憊していたあの日、私はうっかり湯船の中で眠ったまま浴槽の底に沈み、それっきりだった。苦しかったという明確な記憶がないまま、あの日の浴室でのひとときを延々と繰り返している。永遠に腰に届くことはない髪をシャワーで濡らし、その重さに目まいを覚えたのももう何度目だったか。いい加減で終わらせないと、とは思うけれど、終わらせるすべを私は知らない。そうこうしている内に、また繰り返してしまう。
女性はシャワーだけで髪と体を洗い終え、浴室の扉を開いてそそくさと出て行こうとしている。彼女は私の後、何人目の住人なのだろう? そんな風に思ったこともすぐに忘れてしまうだろう。私の中にはもう、あの日から先の記憶が蓄積することはないのだから。
女性が元々浴槽を使わないタイプの人ならば良いけれど、使わないのが私のせいだとしたら申し訳ない気がして、思わず声を掛けた。
「何だかごめんね」
彼女はビクリと肩を震わせ、そのままこちらを振り向くことなく扉の向こうに消えた。
(了)
その場に立ったまま目まいが収まるのを待っていると、入れ替わるように困惑が湧いてきた。自分がたった今シャワーで洗い流したのは、シャンプーの泡だったのか、それともその後のコンディショナーだったか。あるいは、まだ髪を濡らしただけで、これから洗い始めるところだった? その部分の記憶までお湯で流し去ってしまったかのように、たった今さっきのことが思い出せない。
直近に自分がしていたことを忘れてしまうのは、今までにも時々あった。特に疲れが頂点に達している時。例えば今のように、仕事が繁忙期を迎える三月の年度末の時期。髪を二度洗ってしまったり、歯を二度磨いてしまったりする。夕食を二度食べてしまったことは流石にないけれど、食後に紅茶を飲もうと思ってマグカップにティーバッグを入れ、お湯を注いだまま忘れて、翌朝にコーヒーのような色になった紅茶をキッチンの片隅で発見したことがあった。もったいなくてちょっと飲んでみたけれど、あの紅茶は本当に渋かった。思わず苦笑いする。こんな風に、もっと昔のことはちゃんと思い出せるのに。
仕方がないのでもう一度シャンプーからやり直すことにする。目を閉じたままゆっくりと床に片膝をつき、定位置である壁際に向かって手を伸ばした。そこに二つ並べて置かれた容器の、側面にギザギザが付いている方を引き寄せると、中身を手のひらに取り、少し泡立ててから髪全体に馴染ませる。面白いように泡立ってゆく感触があった。これはやはり、二度目に髪を洗う時の感触だ。既に頭皮の油分が洗い流され、髪も充分に水分を含んだ状態だから、泡立ちが良くなるのだとどこかで聞いたことがある。どんどん膨らむ泡が、髪から流れ落ちて肩や背中に積もってゆく。それを温かいと感じている内に、全身が泡まみれになった。頭の先からつま先までを濃密な泡にすっぽりと包み込まれ、呼吸もままならない。もがこうにも指一本動かすことが出来なくなっていた。息苦しさはやがて強い眠気に変わってゆき、意識が途切れた。
気が付くと、私は体を丸めた格好で浴槽の中に横たわっていた。頭の先からつま先まで、湯船に浸かっていたように濡れているけれど、浴槽はどうやら空っぽのようだ。私は両手のひらで顔を拭い、ゆっくりと目を開けた。
浴室の天井には淡い橙色の電灯がともり、ちょうどその下辺りに女性が立っていた。私と同じく、二十代後半といったところだろうか。たった今浴室に入って来たばかりらしい彼女は、両腕で自身を抱きしめるようにして二の腕をこすり、ぶるりと震えた。寒いのかな、と私が思った瞬間、天井灯がチラチラと点滅した。女性は気味悪そうな表情でそちらを見上げ、そのまま私の存在には構わずにシャワーヘッドの下に立ってコックをひねった。
私は浴槽の縁に両肘を乗せ、改めて浴室を見回した。壁際の定位置に私のシャンプーとコンディショナーの容器はなく、代わりに見慣れない詰め替え容器用の壁掛け式ディスペンサーが並べて吊り下げられている。
「さむ」
女性は呟き、シャワーの水温を上げた。
彼女が寒そうにしているのは、私がここにいるせいかも知れないな、という考えが不意に浮かんだ。その途端、浴槽の縁に乗せていた肘から体温がすっと消えた。私はもう随分長い間、ここで同じことを繰り返しているのだということを思い出した。今が本当はいつなのか分からないけれど、少なくとも私が最後に繁忙期を過ごしたあの年の三月ではない。
連日の残業に疲労困憊していたあの日、私はうっかり湯船の中で眠ったまま浴槽の底に沈み、それっきりだった。苦しかったという明確な記憶がないまま、あの日の浴室でのひとときを延々と繰り返している。永遠に腰に届くことはない髪をシャワーで濡らし、その重さに目まいを覚えたのももう何度目だったか。いい加減で終わらせないと、とは思うけれど、終わらせるすべを私は知らない。そうこうしている内に、また繰り返してしまう。
女性はシャワーだけで髪と体を洗い終え、浴室の扉を開いてそそくさと出て行こうとしている。彼女は私の後、何人目の住人なのだろう? そんな風に思ったこともすぐに忘れてしまうだろう。私の中にはもう、あの日から先の記憶が蓄積することはないのだから。
女性が元々浴槽を使わないタイプの人ならば良いけれど、使わないのが私のせいだとしたら申し訳ない気がして、思わず声を掛けた。
「何だかごめんね」
彼女はビクリと肩を震わせ、そのままこちらを振り向くことなく扉の向こうに消えた。
(了)