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ポチのパパ

#第35回どうぞ落選供養 黒田様、「特別企画」参加させていただきます。 ありがとうございます。 ---虫取り名人---  もう半世紀近く前の話だ。僕は夏休みになると、毎年埼玉県の郊外にある叔父の家に、十日ほど一人で泊まりに行った。自然が好きな僕には埼玉県の自然が羨ましかった。雑木林でカブトムシやクワガタムシを取ったり、田んぼの用水路で鮒を釣ったりしていると一日はあっという間だった。子供がいない叔父夫婦は、僕をとても可愛がってくれた。小学生のころは、母が迎えにくると「帰りたくない。ずっとここに住む」と泣きながらダダをこねたのを覚えている。  叔母の家の周りに住んでいた子供たちとも仲良くなって、僕は皆に「東京からきた虫取りの達人」とよばれていた。なぜだかしらないけれども、僕が倒木をひっくり返すとそこにはクワガタムシがたくさんいたり、僕が木の幹に塗り付けた蜜には翌日たくさんカブトムシがきていたりといったことが、僕を「達人」とよばせたのだろう。夏休みが近づくにつれて「また、たくさん虫をとろう!」と考えるとワクワクしたのを覚えている。  この楽しみは、小学生から中学生になっても続いた。でも、中学三年のとき、父親の海外転勤が決まり、僕はカナダの高校に行くことになった。カナダからは夏休みになっても叔母の家にいくことはできないだろう。自然が豊富なカナダに行けることは楽しみだったが、埼玉県の自然と当分お別れなのはなんだか寂しく悲しかった。  中学三年生の夏休み、僕は叔母の家に着くとすぐに、近くの「野犬の森」と呼ばれていた雑木林に向かった。森の虫や木に一人で別れを告げるつもりだった。その森には、むかしは野良犬がたくさん住み着いていて、夜になると犬たちの遠吠えが聞こえたそうだ。役所の野犬狩りのためもう、そのころには野犬はいなかった。二十分ほど歩くと僕は、森の中心部のカブトムシやクワガタがあつまるクヌギの大木の前に立っていた。木の根元に座り込み幹を背にしていると、いつのまにか眠ってしまった。 「虫取りの達人の坊やかい?この夏も来たんだね。ゆつくりしていくといい」 クヌギの木から老婆のような声が聞こえた。 「誰?僕のことを知ってるの?」 「なんで木がしゃべるんだろうって思ってるんだろう?あんたが初めてきたときからずっとよく見ていたよ。自然が好きな子供は私たちの仲間だよ」 とまた木から声が聞こえた。 「しばらく外国へいってしまうんだろう。残念だけど、坊やと会うのはこれが最後だ。二~三年後にはこの森はなくなり、住宅地になってしまうんだ。世の中の流れだね」 とさびしそうにクヌギの木はいった。 「森がなくなってしまうの?そんなの嫌だよ!」僕は叫んだ。 「もう決まっていることだから仕方がないんだよ。これが最後だからね、坊やを【虫取りの名人】にしてあげるよ。達人を超えた名人に…。時にはこの森のことを思い出してくれると嬉しいね」 「どういうこと?虫取りの名人ってなんだい?」 「今にわかるよ。フフフ…」 目が覚めた。全部夢だったんだ。もう、夕方が近かった。クヌギの木の幹には、カブトムシやクワガタムシが集まってきていた。 「僕は虫取りの名人になったのかな?」 と僕はクヌギの大木に話しかけた。返事はなかったが、雑木林の中をさわやかな風がめぐった。  「おい、達人!今年もきたな!なに、木の前でぼーっとしてるんだ?」 気が付くと、近所の家の仲良しの、敏夫が後ろにいた。叔母の家で僕がきたのを聞いてきたらしい。 「来年は俺たち、高校だな。お前高校生になってもくるだろ?」 僕は、なんとなく自分がカナダに行くことを言いそびれてしまった。その夏、僕はいつもと同じように、十日の間虫を取ったり、川で遊んだりした。東京に帰る時、来年はこないことを仲間たちに伝えることはできなかった。  僕がカナダの高校を卒業して帰国したときには、もう「野犬の森」はなくなり、マンションが建てられているところだった。その後、僕が叔母の家に行くことはなかった。  僕は大学の理学部で生物学を学び、昆虫学者となった。数十年が過ぎた。まわりの研究者たちは、僕を「虫取り名人」とよび、海外の調査団に加わったときはMaster Bug Catcherとよばれた。その理由は、他の人が苦労するようなときでも、僕はいつでも虫を採集することができたからだ。新種の昆虫を発見したことも何度かあり、自分でいうのはおこがましいが、昆虫学会では誰もが知っている存在になったようだ。クヌギの木がいったとおり、「虫取りがうまいだけの達人」から「世に知られた虫取り名人」に成長できたのかもしれない。 「ありがとう、クヌギの木のおばあさん。おかげで虫取り名人になれたよ」 と僕は「野犬の森」にいってクヌギの木に伝えたいけれども、もう「野犬の森」はない。 (了)

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