#第35回どうぞ落選供養 どこがダメだったのかを知り、 次に生かせますように。 『名人同士』 どうせ、何の才能もないんですよ、私。 ええ、分かってます。鳶が鷹を生む筈ないんですから、最初っから諦めてます。 父はしがないサラリーマン、母は専業主婦。団塊世代の典型的な昭和の家庭風景と言えるでしょうか。 いえいえ。決して、サラリーマンと専業主婦を馬鹿にしている訳じゃありません。才能の欠片もないこんな私を、身を粉にして働いて、大学まで出してくれたのですから、両親には感謝しかありません。直接、感謝の気持ちを伝えたことはありませんが。 そう考えると、うちの父と母に限らず、親というものは、こどもを育てあげる名人と言ってよいのかもしれません。 そもそも『名人』とは、技芸に優れている人、の意味で、将棋の『名人』は、よく聞きますね。 我が親はあまりに身近すぎて『名人』などと思うことはありませんでしたけれど、こどもを育てあげる“技芸”は、並大抵ではないでしょう。親になったことのない私が、親の“技芸”を語るなどおこがましい限りですが、今更ながら、本当にそう感じています。 しかも、大学まで行ったにも拘らず、何の才能も見出せなかった私に、ずっと学費を出し続けてくれたのですから、これはもう“奉仕の名人”だと声を大にして伝えたいです。 奉仕と言えば、ボランティアですね。 昨今では、大地震の影響から『災害ボランティア』なる言葉を、ちょくちょく耳にするようになりました。 『何の才能もない私が社会貢献するには、ボランティアしかないかなあ』 災害ボランティアの方が活動している姿を拝見し、そんな思いがちらっとよぎったこともあるのですが、ごめんなさい。駄目なんです。お力になれないんです。車椅子の私が被災地に行けば、却ってご迷惑になってしまいます。 つくづく私は『本当に何の才能もないのだなあ』と思い、落ち込みます。 こんなふうに、自分自身を否定してしまうと『自己肯定感が低い』と診断されてしまうのでしょうね。いつからこんなふうに、自分を卑下するようになってしまったんでしょうか。まったく覚えていません。 ……。……。 思い返せば五年前、事故で車椅子生活になったことが、『低自己肯定感』の始まりだったのでしょうか。 忘れもしない五年前の九月十四日、大雨の中、結構なスピードを出して、私は自転車に乗っていました。電車に乗り遅れるから、とか、友だちとの約束に間に合わないから、などという目的で速度を上げていたわけではありません。単なる自身のせっかちな性格と、なまじっか運動神経がよかっただけに、このくらいスピード出しても平気、という過信とで、ペダルをガンガン踏み込んでいたら、滑って転倒してそこに自動車が通って……という顛末です。 車椅子が必須だと聞かされた直後は、声も出ず、思考も停止し、廃人のようになっていました。起きたことは受け止めるしかない、と分かってはいても、後悔ばかりが頭をぐるぐる回り続け、 『ああ私は、何て駄目な人間なんだ』 との気持ちが、あの時から今に至るまで、ずっとずーっと体中に錆となって染み着いたまま、取れていないのでしょう。 今年三十五歳になる私は、今もなお、両親のお世話になりながら暮らしています。 両親にしてみたら、手を離れたと思っていたこどもが、手の掛かるこどもに戻ってしまったのですから、申し訳なさでいっぱいになります。 けれど“子育ての名人”でもあり“奉仕の名人”でもある両親は、自分たちの手中に出戻った我が子を、見捨てないでいてくれるのです。本当に『名人』としか言い様がありません。 「よっ、名人」 車椅子を押してくれている母に聞こえるか聞こえないかの声量で言うと、母はこちらに顔を近づけ、 「何? 何か言った?」 と尋ねてきました。 「お母さん、ほんと名人だよねえ」 そう応えると、母は意味分からん、というふうなきょとんとした表情で、 「何? 何のこと?」 と、顔を覗きこんで再び尋ねてきました。 「だから、お母さんは名人なんだってば」 「ふうん。そうなの? 何だかよく分からんけど、名人と言われると悪い気はしないから、言葉通りに受け取っておくわ」 そう言うと母は続けて、こう言いました。 「名人って言うなら、あんただって、私をいい気持ちにさせてくれる名人だよ。昔から」
うえおあいちゃん