#第35回どうぞ落選供養 タイトル : 自由研究サークル活動報告(2023/08/16) ——というわけなんだけど、君ならどうするかな? 右耳に押し付けたスマートフォンはじわじわと熱を帯び始めていた。それが時間の経過を僕に克明に感じさせていた。僕の泳ぐ視線は、五秒に一回のペースで正面に立つ一人の女性に向けられていた。そして、彼女と目が合う度に僕は愛想笑いを見せて小さく頭を下げた。僕もそうだが、彼女の方も居心地が悪そうだった。もじもじとスカートの裾を握っていた。 やっぱり、俺なら断らないね ちょっと待ってくれ、その状況を想像させてくれ、と長考の末に電話越しの友人はそう答えた。ようやくそれを聞けた僕は彼にひとこと礼を告げ、電話を切った。ポケットに入れたスマートフォンの熱はすぐには冷めず、それがなぜだか正面に立つ女性の体温のようにも思えて僕は余計気おくれした。 「誘ってくれてありがとう。ぜひ行く。お邪魔させてもらうよ。君のうちに」 その言葉を耳にして女性は顔に集中させていた緊張を一気に緩ませた。冷凍状態からだんだんと解凍されていくように、彼女の表情ははっきりと安堵という感情を示していた。僕の方に一度目を向けすぐに逸らし、また目を向けてきた。口の端や眉がぴくりと上を向いた。 そんな風に嬉しそうであったのにもかかわらず、女性は少しすると再び俯き「でも、本当にいいんですか? 電話のお相手に迷惑じゃないですか?」と不安そうだった。 僕は首を振った。さっきのはただの友達だから、と相手を安心させようとそう口にしたとき、僕の心中にクエスチョンマークが浮かんだ。いいや、友達じゃないかもしれない。今、このとき、この一週間において、彼は僕の友達ではない。彼は僕なんだ。もっと正確に言えば、彼は僕になりつつあり、僕も彼になりつつあるんだ。 「ねえ、何の映画借りる?」 立ち寄ったレンタルショップにて女性にそう訊ねられたとき、僕はまた断りを入れて友人に電話した。 言っておくが、別に僕は優柔不断な人間ではない。マッチングアプリで知り合い、デートした女性に家に来ないかと誘われたからって気が動転して友人に判断を仰ぐなんて馬鹿げた真似はしない。 これはれっきとした実験だ。ルイと僕との共同実験なんだ。ただ論文にはならないだけで、この実験結果が興味深いものになるのには変わりないと思っている。 ××大学 自由研究サークル(非公認) 第13回の実験テーマは、簡潔に言えば、《選択の個人形成への影響力》についてだった。そして、五日前からルイと僕は比較的明確な選択が与えられた際に(人生は選択の連続であり、細かいものまで研究対象に入れていたら僕たち素人には手に負えない)、互いの判断を相手に任せて一週間生活するようにしていた。 夏休みという有り余った時間の中でルイは恋を求め、マッチングアプリを始めるという選択をし、それを僕が担うことになった。一方で僕はRPGゲームの完全攻略を求め、ドラゴンクエストシリーズのプレイを選択し、それを彼が担うことになった。多くの場合において僕は女性への接し方について彼に連絡し、彼はゲームキャラの操作や行動について僕に連絡してきた。 そのようにして自身の選択を別の誰かにゆだねることで自身が段階的に自身でなくなり、その別の誰かに変化していくことができるのではないか、と僕たちは考えていたのだ。要するに、そのようにして僕が彼として、彼が僕として、この先の人生を歩むことができるのであれば、選択というものがいかに個人形成に重要なものなのか、証明できるのだ。 しかし、この実験には穴があった。小さいながらもそれは至るところにあり、それらは時間の経過とともに少しずつ大きくなっていった。そして、目の粗い網から次々と魚が漏れていくように僕たちの実験は破綻し始めていくことになった。 「そんなことで連絡するなよ。家に上がったんだ、そりゃ一緒のベッドで寝るに決まってるだろ! ——待て、まさかお前、別々で風呂に入ったのか? 俺に確認もせずに勝手に」 「それわざわざ訊くことじゃないよ。パーティ編成を敵モンスターの弱点に合わせればいいだけ! ——もしかしてルイ、その手前の森でボスに対して有効な魔法を憶える仲間を手放したのか? 僕に連絡もしないで」 これに似たやりとりはこれまでに何度かあった。初めのうちは互いに許容し合うことができていたが、実験が終盤に近づく中で、慎重に選択するべきだと考えているポイントがそれぞれで違っており、それが原因で大きなずれを産んでいることが明確になっていった。 どこで選択するかという判断も一つの選択だったのだ。その気づきは僕に、僕という個人を僕の中から外へ出させることのない窮屈な箱の存在を強くイメージさせた。 結局、僕は僕なんだ。僕は僕にしかなりえないんだ。 そんな思いを抱いた僕はマッチングアプリで出会った女性と電気を消した薄暗い部屋のベッドの上で仰向けになりながら、果てしない徒労感とともに漫然と無表情な天井を眺めていた。
いぬとび