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最終回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「拳骨の味」霧村ともり

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作文・エッセイ
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最終回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「拳骨の味」霧村ともり

 第10ラウンドのゴングが鳴る。相手は現役の日本王者。僕の方は挑戦者だ。王者の顔はわずかに赤く腫れ、こめかみや口元は血が滲んでいた。おそらく僕の方がもっとダメージは大きいはずだ。右まぶたが腫れ上がって視界の半分を塞いでいる。耳がつんざくような声援の中、セコンドの声が負けじと飛んでくる。

「左ストレートをよく見ろ! 狙っていけ!」

 挑戦者であり、ポイントでは負けている状況だ。もはやK.O.以外での勝ち筋がない。

 サウスポーの王者も、得意の左ストレートで僕を仕留めるつもりだろう。王者の鋭い左拳を、踏み込んで躱しクロスカウンター。凡骨の僕に、そんな事が可能か。答えを確かめている時間はない。王者の左ジャブを両手で防御し、僕は前へ出る。左ジャブは間合い調整。左拳が届く距離に僕はあえて身をさらす。王者の姿勢がわずかに半身になる。左を引き、力を溜めている。僕はこんな時、決まって思い出す。大嫌いな父の拳骨の味を。

 父は控えめに言っても粗暴な男だった。仕事では責任ある立場のようだが、家に帰ると僕にとっては恐怖の権化でしかなく、常にびくびくと怯えていた。母は僕を産んで間もなく病気で他界。父はそれを僕のせいにしているようにも思えたし、仕事でのストレスもあったのだろう。家にいるときは常に酒をあおっており、理不尽な理由を付けて僕を殴った。自宅は小さな平屋で、自分の部屋などない。テレビを観ながら不機嫌そうに酒瓶を傾ける父の姿を、膝を抱えてみていた。

 高校を卒業して、町工場に就職した。ある日帰宅する途中でボクシングジムの前を通った。大きな窓ガラス越しに見える選手達が、一心不乱に拳を振って汗をかいていた。一日体験歓迎と書かれたポスターを見て、休日に何となく行ってみた。何の知識もないが、サンドバッグを叩き、シャドーボクシングを教えてもらい、最後にスパーリングをする事となった。ヘッドギアを付け、より厚みのあるグローブを装着してのお遊びみたいなものだ。相手はジムに長年通っているセミプロのような人で、当然ながら勝負にはならなかった。いくつものパンチを浴び、あまり楽しい思いはなかったが、終わり際にもらった一言が印象に残っている。

「君、見所あるね。素人はパンチに目をつむってしまうものなんだけど、君はじっと拳から目を離さなかった。おかげでこっちもついつい、熱が入ってしまったよ。済まなかったね」

 僕は翌日から、そのジムに通うようになった。父には隠していたが、毎日のようにジムで修練を積んだ僕は、トレーナーの勧めでプロライセンスも取得した。ボクシングで食べていくつもりはなかったが、強くなった証明が欲しかったのか。合格した僕は、初めて自信を得た。しかし、家での父の暴力には、相変わらず体がすくんで動けない。父よりも遙かに速い拳をスウェーやダッキングで躱す技術は身につけているのに。

 町工場での給料以外に、プロとしてのギャランティをもらえるようになった頃、父は長年の飲酒がたたり、肝臓をやられて入院生活を余儀なくされる。父の稼ぎの大半は酒に消えていたのだが、僕の貯金はかなり余裕があったので、良い病院に父を入れることが出来た。病によって気性の荒さが失われた父は、僕からしてみれば別人のようだった。見舞いに行けば、僕に感謝の言葉すらくれるようになった。僕は父の変化に、嬉しさよりも何故か悲しさの方を大きく感じていた。父の病状は良くならないまま、やがて亡くなった。火葬され骨壺に納められた父の何と小さな事か。乗り越えるべき恐怖の対象があっさりと消失した。

「ぐっ!?」

 王者がわずかにうめく。彼の渾身の左ストレート。それは僕の顔面に確かにヒットしていた。躱すことはしなかった。むしろ額を突き出し、当たりに行ったのだ。額は人体の中でもかなり硬い部類に入る。そこを思い切り叩けば、グローブ越しでも拳の骨が砕ける事だってある。もちろん、僕の方にもダメージはある。だが、それを上回る覚悟の量が、意識を奪う脳震盪に勝った。僕はさらに踏み込んで、王者の顎筋目がけて右フックを放つ。拳の痛みで一瞬怯んだ彼の隙にそれが直撃。王者は一瞬の停滞の後、大の字でマットに沈んだ。テンカウントを待つまでもない。僕は立ち尽くし、歓喜わくセコンドに飛びつかれるまで天井のライトを見上げていた。

 眩しいくらいに向けられるカメラのフラッシュの中、インタビューアーがリングの上で僕にマイクを向ける。

「おめでとうございます。勝因は何でしょう?」

「支えてくださった、ジムの皆さんのおかげです」

 本心は誰にも言えない。僕は日本王者になった。その原動力は、紛れもなく大嫌いな父の拳骨のおかげだ。

(了)