最終回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「つみびと」ヒラタマリコ
日の出からしばらくして、一斉に蝉が喚きだした。それはいつもの夏と変わりない聞き慣れた雑音で、気だるい朝の始まりに私は嫌気がさし、コーヒーを入れるためキッチンに向かいヤカンに水を入れコンロに火をつけた。数分後に湯が沸いたので、私はペーパードリップで好みの濃さにして、熱いコーヒーをすすった。喉に温かい液体が流れるのを感じてぼんやりしていると、五年前の夏に付き合っていた男のことが頭をよぎった。
当時の私たちは、別々の世帯を持っており、男に子供はいなかった。程なくしてお互いの配偶者と離婚することになったが、私たちの関係も、それからあっけなく終わりを告げた。
今になって冷えた頭で考えてみると、全くもって大した男でなかった。その頃の私は、夫とも関係性が壊れていて、家に身の置き場がなかったし、白馬のナントカが迎えにくるとかは、これっぽっちも考えてもおらず、ただそこにタイミングよく私と一緒になりたいという物好きな人が現れただけであった。
その男はカウンセリングを生業としていて、心病んでしまった多くの人たちに手を差し伸べることで、自身の不安定な心の均衡を保っているように私は感じていた。彼に時々襲ってくる猛烈な焦燥感を何かで埋めるには、少しばかり気が病んでいた私が、ちょうど釣り合いも取れていてよかったのかもしれない。
私たちは骨の髄まで貪り合いながら、お互いの傷口を広げないように身を寄せるほど、その傷は大きくなり、つがいのハリネズミが背中の針でお互いを攻撃するような付き合いだった。
今年の初め頃から、十六歳の娘がトイレに篭るようになった。標準的な体型だった彼女が痩せ細り始めて、過食嘔吐をしていることが判明した。私が彼女くらいの歳の頃に、やけ食いしてはトイレの中で自分の口に右手の中指と人差し指を入れて舌の根元をぐっと押さえることで、胃に入った大量の食べ物を全部吐き出していたという経緯を彼女に伝えたのが、過食嘔吐の引き金にもなったのかもしれない。
しばらくはそっとしておいたのだけども、日に日に痩せ細り、まるで彼女はアフリカ難民みたいに骨と皮だけになった。小さい頃から続けていて得意だったダンスレッスンで同じクラスの仲間と比べ、自分の能力の限界を感じてやめてしまったのも過食のスピードを速めたようだ。とにかく、悍しい形相で取り憑かれたかのように、朝と晩には二合の釜の飯をあっという間に食べ尽くす。
何が楽しくてそんなに食べるのか? 過去に過食をしていた私は手軽なジャンクフードで腹を満たしたが、彼女はそうではなく、家中のあらゆる食べ物を手当たり次第に貪った。
五年前の当時、小学生だった彼女をほったらかしにし、外の男に狂った愚かな母に対して、今になって復讐しているかのようにも感じていたが、日々崩壊していく娘を横目に、私が長い時間をかけ過食嘔吐をクリアした事実をどう伝えたら良いのかさっぱりわからなかった。
そんな渦中に、男から久しぶりにメールが届いた。その内容は、私が以前彼から依頼されていた未完の仕事の再開を希望しつつ、要は復縁したいという旨だった。別れてからこんなやり取りを何回か繰返しては裏切られていたので、今度ばかりは冷静な態度で私は対応した。
この男も大したもので、毎回自分が振られていることに気がつかないばかりか、私がいつまでも彼を密かに想い続けているに違いないと信じ込んでいるようだったが、語彙力豊富で博識な彼が放つ情熱的なコトバに酔いしれていた私も、さして大差なくおめでたい女であった。
私はふと、娘の現状を彼に伝えてみようと思い電話で相談した。彼女が心を病んでしまったきっかけになったのかもしれない男に、こんな相談をしている私は何なんだろう。彼が原因でもあり、その結果かもしれないのに。
彼は娘の現状を否定せず、全部受け止めてあげてほしいと言った。その返答は、自分も彼女を傷つけてしまった共犯者だという懺悔であるようにも私には聞こえた。
蝉のけたたましい喚き声と共に、家のトイレからは娘が嘔吐する音が響き渡っている。私はすっかり冷めてしまったコーヒーをキッチンのシンクに流した。
(了)