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最終回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「エンディングノート」阿部寿人

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作文・エッセイ
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最終回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「エンディングノート」阿部寿人

 正雄は夕食を済ませたダイニングテーブルで、先日書店で買ったばかりのエンディングノートを開いた。先日古希を迎えたのをきっかけに書いておいた方がいいと思ったのだ。

 夕食の片づけを終えた妻の多江が、それに気付いて正雄の横に腰掛けた。

「あら、珍しい。何をお書きになるの?」

「そろそろ俺も終活を考えないといけないと思って、エンディングノートを買ってきた」

「エンディングノート? あなたが?」

 今にも吹き出しそうな顔で多江が答えた。

「何かおかしいか?」

「だってあなた、今まで病気一つしたことないじゃありませんか? エンディングノートなんてまだ早すぎるんじゃなくって?」

「そんなことはない。いつ死ぬかわからないのだから準備しておくに越したことは無い」

 正雄は、何事にもきっちりしておかないと気が済まないたちだった。役所を定年で退職した後も毎日規則正しい生活を送っていた。

 多江も専業主婦としてそんな正雄を支え続け、定年後もその関係性は続いていた。

 エンディングノートの中で『お墓について』という項目に正雄の目が留まった。

 墓は母親が生前に建てたものが近くの寺にあり、両親はそこに眠っていた。正雄は当然その墓に入るものと思っていたが、多江には一度も改まって訊いたことはなかった。

「お墓は一緒に入ってくれるんだろう?」

「お墓って、どのお墓ですか?」

「どのお墓って、親父とおふくろの墓さ」

 多江は一瞬逡巡した素振りを見せると、くるりと正雄の方へ向き直った。

「ごめんなさい。それは出来ません」

 意外な答えに正雄は困惑した。

「どうして?」咄嗟に口に出た。

「私の骨は玄界灘に散骨してほしいんです」

 毅然とした口調で多江が答えた。その目は理由を訊かないでほしいと必死に訴えていた。

 正雄は混乱した。頭の中で妄想が駆け巡る。

 一緒に墓に入らないというのはどういうことだ? 俺と一緒が嫌なのか? いや、おふくろと折り合いが悪かったのでそのせいか? それにしても玄界灘に散骨とはどういうことだ……?

 正雄は結婚前、福岡に住む多江の両親に挨拶に行った時に、多江には将来を約束した男がいたが海で亡くなったと、同じ漁師だった多江の兄から聞いたことがあった。

 もしかしてその男が亡くなった海が玄界灘なのか? だから玄界灘に散骨してほしいのか? ずっとその人を忘れられなかったということか……?

 はっきり訊いてみろよと心の声が叫ぶ。

 しかし、訊いてしまうといつも近くにいて自分を支えてくれていた多江が、遠くに行ってしまうような気がして訊きだせない。

 しかし待てよ、これは俺が先に死ねばやらなくてもいいことではないか? 多分男の俺が先に死ぬ。大丈夫だ。

 正雄は咄嗟にそう思い直し、「わかった。そうしよう」と心の乱れを悟られないように答えた。

「ありがとう、あなた」

 満面の笑みを湛える多江を見て、正雄は自分が絶対先に死んでやると心に誓った。

「もうひとつお願いがあります」

 毅然とした多江の口調に正雄は身構えた。

「あなた名義になっている銀行口座のパスワードを書いておいてください」

 一旦落ち着いていた正雄の妄想が、再び積乱雲のように立ち上がってきた。

 死んだら口座が凍結されると聞いたが、なぜパスワードを知りたがる? 俺が死んだら凍結前に金を下ろす気か? その金で故郷に帰り死んだ男を思いながら余生を暮らす気なのか? でもその金で俺の葬式を盛大にやってくれるつもりなのかもしれないな……

 うじうじと考えていないではっきり訊いてみろよと再び心の声が叫ぶ。

 しかし先ほどの散骨の件で金縛り状態になっている正雄は、理由を訊く勇気が出ない。

 いや、待てよ、これは俺が先に死ななければ教える必要なんかないではないか? そうだ、そうだ、先に死ななければいいのだ。

 そう思い直し、「わかった、書いておく」と気安く答えたものの、すぐに大きな矛盾に気が付いた。多江が先に死ぬということは、多江の骨を玄界灘に散骨しなければならないではないか。それは出来ればやりたくない。

 先に死ぬべきか否か、正雄の頭は混乱した。

 しかしいずれにせよ、完全に詰んでしまっている自分に気づくと次第に腹が立ってきた。

「やっぱりやめた、まだ書くのは早い」

 正雄は将棋の敗者が駒を投げるかのようにエンディングノートを閉じた。

「だから言ったじゃありませんか」

 多江が悪戯っぽい笑みを浮かべながら、正雄を諭すような口調で言った。正雄は二度とエンディングノートは書くまいと心に決めた。

(了)