最終回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「骨と紫陽花」風谷凛花
「あの人の骨をください」
そう言って、彼女は私に頭を下げた。
いつの間にか外は静かな霧雨が降っていて、彼女の後ろで白い糸を垂らすように落ちては、彼女の持っている黒い手提げバックと、短い髪や細い肩を少しずつ濡らしていた。
アノヒトノ ホネヲ クダサイ
しっかりと聞こえていたのに、その言葉を上手く変換できなくて、とりあえず入ってと、私は初めて会う彼女を家の中に招き入れながら、そうか、この女は夫の愛人だったのかと、馬鹿みたいに当り前のことを、霧雨が落ちるように、ゆっくりと理解した。
がらんと広いリビングのソファーに、勧めるまま恐縮して浅く腰かけた彼女は、玄関先で、骨をくださいと言ったきり、一言も発しなく、お互い無言のまま、しんとしたリビングいっぱいに、雨の音だけが、低いBGMのようにしばらく鳴っていた。
夫が死んだのは突然だった。夫の会社の人から私の携帯に、夫が倒れたと連絡がきて、告げられた救急病院に私が着いたときにはもう、実は息をしていなかった。何もかもいつもと少しも変わらない朝だったのに、人って簡巣に死ぬものなんだなと、その時私は思った。
「あの、奥様……」
自分が呼ばれたことに気付いて振り向くと、申し訳なさそうに、黒い瞳を潤ませた夫の愛人が私を見ていた。化粧気もなく、取り立てて美人でも不細工でもない顔、ショートヘアの黒髪に痩せた身体、最販店で買ったと思われる安っぽい黒のワンピースから伸びた手足に色香は感じられず、ただ子供みたいに幼く見えた。何もかも、自分とは正反対だと思った。
私と夫は同い年で、今年揃って四十歳になった。二人とも仕事が好きだったから、子どもは持たず、結婚してからもずっと仕事を続けてきた。夫も同じ考えだと、ずっと思っていたけれど、それは私の独りよがりだったのかも知れない。
「あの……」
黙ったままの私に向かって、夫の愛人は再び私にあの言葉を口にした。
「奥様お願いです。あの人の骨を私にください。ほんの少しでいいんです。他には何もいりませんから」
そうしてまた、ソファーに面したテーブルにぶつかるくらいの勢いで、深く頭を下げた。
そんな彼女の声にも掻き消されない程、今や激しくなってきた雨音は、薄暗くなり始めたリビングを重苦しく覆っていた。
「そんなに夫の骨なんて欲しいの? なぜ?」
そう問いただした私に、夫の愛人は少し驚いた顔をして話し始めた。夫との出会いから、デートした場所、果てはベッドでの様子まで。最初、遠慮深くたどたどしかった口振りも、段々と大胆に赤裸々になっていった。彼女が語った夫の姿は、どれも私の全く知らない別人のようだった。だから、私は彼女に言った。ごめんなさい、夫の骨、あげられないわ、と。
夫の愛人は、心底悲しそうな顔をした。そして、実様は、あの人の全部を持っているんだから、少しの骨くらいくれたっていいじゃないですか、と、べそべそ泣いた。
本当は、骨なんてあげたって構わなかった。実際、彼女の口から夫の話を聞くまでは、そんなに欲しいならあげてしまおうかと思っていた。けれど、私の目の前で鼻水まで垂らしてみっともなく泣きじゃくる彼女を見ている内に、これ以上彼女に渡す必要はないと思ってしまった。夫の全部を持っているのは、妻である私ではなく、愛人である彼女の方だということが分かったから。
いくら頼んでも、泣いても無駄だと諦めたのか、夫の愛人は、すみませんでしたと謝ってから、せめて最後にこれをあの人の仏壇に供えてくださいと言って、持ってきた黒い手提げバックから、新聞紙にくるんだ一房の紫陽花を差し出してきた。あの人が、好きな花だったから、と付け加えて。
この人は、最初から知っていた。自分が知っているということと、それを私が知らないということを。それをわざわざ私に伝えに来たのだと思った。けれど、彼女にも知らないことが一つだけある。
私は、夫を愛してはいなかった。少なくとも、こんなことまでして、夫の骨を手元に置きたいと願うほどには。
夫の愛人が帰った後、私は庭に出た。雨はすっかり止んでいて、あちこちに大きな水たまりが出来ていた。私はそこに夫の骨をばらまいた。そして、その上から紫陽花をちぎって放った。夫の骨は、たちまち黒く光る水面に吸い込まれていって、散り散りになった紫陽花の花弁が、いつまでもその上でくるくる回っていた。
(了)