第78回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「神秘空所」くりばやしともや
久しぶりに劇場の大きい垂れ幕を見て、ふと何十年も昔の学生時分が思い出された。
中学高校と学校に通っていた時、思春期ということもあって教室の女子という存在に度々興味をそそられていた。男兄弟で友達も男しかおらず、女子と話す機会もなかったので、興味のない素振りの裏腹でよく気になって見ていた。当然周囲にはばればれだったであろう。省みると可愛いものだ。
特に、自席に座ってノートに何か書いている女子を観察していると、複数に共通した仕草があることを発見する。あまりにも机と顔の距離が近すぎるのだ。もはや文字列を睨みつけている。不良女子が同じく不良の彼氏に対して怨み言でも書いているかの如くノートにメンチを切っている。消しくずをふっと息で払うのも印象的だった。
昔から机と顔は三十センチは離した方がよいと教わったものだが、十センチくらいの近さの子もいた。いや、もっと近かった子も居たように思う。というのも、前髪が垂れ下がって机にかかっていて、その見た目はまるで幕だったからである。
最初は、あんなに近くで文字を見ていると目が悪くなるのではという程度にしか関心はなかった。しかし、これが一人ではなく様々な女子達がやっていることに気付くと、たちまち脳内に居座ってくる。おそらく年頃の女子の生態なのであろう。
人間心理とは不可思議なもので、毎日視界に入ると次第に、あそこに入ってみたいと思うようになった。あそこというのはもちろん女子の前髪の幕の内側である。机と顔の天地に挟まれて、熱心に何かを書いている右手と添えられた左手に遮られた空間。その隙間に神秘的な意味を持たせるかのように、垂れ幕が覆い被さる。隠された所内には一体どんな虎の子が埋まっているのだろうか。見てみたいという欲が頭から離れず、期末考査の正答より見たかった。
ああ、触れてみたい。あの幕に手を差し込んでみたい。叶うことならあの中に入り込んで、大手を振って深呼吸してみたい。ごくごくと喉が鳴る。
はたと目を開くと教室のような場所に立っている。ぼやけてはいるが生徒達の服装からして高校時分だろう。傍らには一人の女子が机に座っている。詳しくは覚えていないが、シルエットの感じを見るに同じクラスに居た子だ。例によって机に頭を近づけて何かを書いている。
跪いてその子を堂々と観察する。黒髪が隙間なく垂れ下がり、窓から差す光が反射する様はさながら上質なサテン生地である。黒い光沢がふわふわと柔らかい感触を主張している。足を組み替える動作に従って垂れ幕もゆらゆらと揺れ動く。私を誘っているのだ。
恐る恐る右手を伸ばして指先で軽く撫でてやると、てらてらと表情を変えてみせてくる。これは何だ。このなまめかしい輝きは。例えるならばネオンサインに照らされたフクロウがラブレターをついばんで翼を羽ばたかせているかのようだ。
その温かさに吸い込まれて手を差し込むと、いとも簡単にすりすりすりと入っていった。震える指先と共に、未知の世界に踏み入る緊張感を楽しむ。手で割かれて縦に狭い亀裂が入った幕を、僅かにめくり上げて覗き込む。暗闇で何も見えない。思い切って肩を入れ込み歩を進める。
そこには広大な大地が広がっていた。見上げれば巨大な黒ヒスイの中に天の川が泳いでいる。右には筋骨隆々の岩肌がそびえ立ち、左には溶岩が地を這う稲妻のようにうごめいている。
素晴らしい。圧倒的な絶景に涙が止まらない。天を仰ぎ、両手を口元に寄せて指を絡めると、上から突風に見舞われて、地面にばちんと打ち付けられた。
「あなた、始まるわよ」
家内の声が聞こえてきた時、何時間も経過したかのような余韻と共に目の焦点が合った。いつの間にか劇場の明かりが消え薄暗くなっている。
顔を上げたタイミングでちょうど大きい垂れ幕が左右に別れていき、びちびちと鳥肌が立った。ただ観劇に来ただけにも関わらずどくどくと緊張して動悸がする。右手で胸を押さえるが、掌にはサテンの感触が残っている。
顔も名前も覚えていないあの子の亡霊に心臓をぽよぽよとつつかれている気分だ。これは大変な体験をした。幕にはこんな効力があるとは知らなかった。幸いこれから二時間は座りっぱなしになるので、ゆっくり今の空想を味うことができる。落ち着いて深呼吸して、まぶたの裏の教室に入っていった。
(了)