阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「闇にさわった男」吉田猫
死ぬ思いでサービスエリアの入り口までたどり着いた。目の前に続く道以外、ほとんど回りは見えていなかった。ああ、もう限界だ。
地方の出張先へと快調に高速道路を飛ばす高藤健一に異変が起きたのは二十分ほど前だった。急に腹痛が襲ってきたのだ。なんとか耐えながら駐車場に車を止めた。車を降りると額に汗をにじませながら少し内股になり小走りで手洗いへと向かう。運よく個室は一つ空いていた。助かった、四十を過ぎた大人としての尊厳はなんとか保てることができそうだ。ああ、間に合った。
至福の心持ちで事を済ませ一息ついた高藤に思わぬ物が目に入った。壁に取り付けてある小物台に黒い財布らしき物が置いてあるではないか。忘れ物か。悪意はないが思わず手に取って中を見てみる。信じられないことに三十万円は入っている。今時こんな大金を財布に入れて持ち歩くやつがいるのか? どっきりカメラではないのか? 思わず回りを見渡してしまう。
高藤は健全な市民だ。人に恥じいるようなことをこれまでしてきたことはない。両親も善人だった。その血を受け継ぎ道徳的にいつも生きてきた。自分がこの財布を持ち逃げすることは百パーセントない。絶対にない。それは確信している。
ない、のだから想像するぐらいは自由だろう。高藤は少しだけ考えてみた。もしこの財布を手に入れると俺は何をするだろう。そうだな。来月にも通知が来るはずのローンが残る自宅の固定資産税と自動車税の支払いだな。それから調子の悪い給湯器の修理だ。これも結構金がかかる。この三つだけで既に足が出てしまうかもしれないが、頭の痛い支払いがほぼ解消する。いやいや、これはただの妄想だ。やろうといっているわけではない。高藤は自分に向かって照れ笑いをした。
それにしてもこの財布の持ち主は現金のみならず、中に入っているゴールドやブラックのカードの種類から見ても相当の金持ちに違いない。俺が持ち去ったとしても銀座あたりのクラブで「いや財布落としちゃってさあ、ガハハ」などと笑って女の膝を触っている輩かも知れない。
もし俺がこの金を使い込んだら、俺は一生心に傷を負うだろうか。あのとき人に言えない恥ずかしい泥棒をしたと死ぬまで罪悪感に苛まれるだろうか?
届けるのを忘れたと自分を納得させるのはどうだ。そもそも行為そのものを結構すぐに忘れてしまうかもしれないし。いや待て、そんなはずはない。やはり犯罪者にはなりたくない。一生、罪悪感を抱え込んで生きるのは御免だ。でも、もしこれの持ち主が本当に銀座のスケベ親爺だったら誰も困らない。そんな奴のために、なぜ俺が一生悩まなくてはならないのだ。高藤は財布の持ち主に嫉妬にも似た腹立たしさを覚え始めていた。
それに男は少し悪い方がモテるという。魅力的だと言う女もいると聞く。俺も少し悪くなって生きてみるのはどうだ? いやいや、なんと馬鹿なことを。そんなこと考えてどうする。俺はそんな人間ではないはずだ。
なんとか押し止めようとしながらも心が傾きかけている自分に高藤はしだいに恐ろしさを感じ始めていた。
どうだ、俺だってワルになることはできるのか。銀座の親爺を欺き、クールな犯罪者になって生きる。俺にできるのか。いや今まで真面目に生きてきた。そんなこと俺にできるはずがない。今まで俺はいい人だった。ただのいい人……。みんなが俺に言う。ただのいい人……。そうだ、俺はただのいい人でしかないのだ。ただのいい人でしか……。
「畜生!」俺だって男だ。やるときはやってやる。
高藤はパンツを下ろしたまま立ち上がった。自分の心に闇を抱えて生きてやる!
このドアを開けると違う世界が待っている。そうだ今日から俺は仮面をかぶった悪党になるのだ。妻や子にも本物の顔を見せない悪魔。黒いマントを羽織り高層ビルの屋上から世界を見下ろしてやる。気分は最高だ。
よし、と頷き高藤は決心をして個室を出る準備をする。ゆっくりと鍵を外しドアに手を掛ける。新しい世界に乗り出すのだ。今日が人生の転期となる。ダークサイドへようこそ。
まなじりを決して、その財布を握り締めながら高藤がドアを開けると、目の前に小柄で少し頭が薄くなったポロシャツ姿の中年の男が立っていた。出てきた高藤と目が合ったその男は腰を屈めて申し訳なさそうに言った。
「どうもすみません、ありがとうございます。それ……」高藤が持っている財布を指差している。
「ああ、忘れ物ですね。はい、どうぞ」
弱々しく微笑み、高藤はその財布を男に差し出した。他にできることなど有るはずもない。
(了)