阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「麦わら帽の誘惑」やまねよしみ
いやぁ、弱ったな。いきなりのリストラで寮まで追い出された俺に不動産屋が案内してくれた物件が、なんとも不気味なんだわ。ほらっ、よくあるパターンの昭和のかおりムンムンの蜘蛛の巣が貼った木造二階建て。物件は鉄製の外階段を上った一番奥の部屋だ。
「一階は大家さんが住んでおられるんで治安がいいですよ。おまけに角部屋ですし」
不動産屋は、安い割に好条件だとまくしたてる。確かに。JRの最寄駅から徒歩5分で、東京都心から少し離れているとはいえ月額1万円は安い。まてよ……俺は聞いた。
「なんか、それって、やばい物件ですか」
「前に借りてた人はお年寄りで独り者だったんですが。いえいえ、事件で亡くなられたんじゃありませんよ。しつかりご家族も駆けつけて、なかなかしっかりした皆さんでしたし」
口ごもる様子もなく能弁に語る不動産屋に嘘はなさそうだ。不気味なのは、見かけの問題か。
狭い玄関を入ると右手に、小さなタイル張りの風呂と和式トイレ。左手には簡易キッチン。奥に進むと押し入れ付きの六畳間の和室。古ぼけた畳は縁がすれている。掃出しの窓の外はテラス。これはありがたい。
そのテラスの出口側の柱に麦わら帽子が一つ掛ったまま、隙間風が吹くのか揺れている。
「前の人の忘れ物ですかね。で、こっちは南」
俺は、テラス側の方位を聞いた。
「東南ですよ。日当たりのいい方位ですけど」
そう答える不動産屋の端切れは悪い。それもそのはず敷地にはうっそうと樹木が茂り、薄暗い。
「まあ、駅近で利便性がいいし、表通を曲がったところにコンビニもありますし」
不動産屋は、なんとか貸したいみたいだ。俺も、実は選んでる余裕なんかない。が、(ここでも借りるか)と決心したにも関わらずもったいぶった。
「少し居心地を確かめたいですね」
すると、不動産屋は快く一時間後に迎えに来ると言い帰って行った。
畳の上に寝転んで俺は、ここに住んで次は職探しだと、考える。先ずは一段落だ。ほっとしているところに声が。
「寝転んでる場合か。いい天気じゃねぇか。こんな日は外に出るもんだ。ほれっ、帽子を冠って」
「えっ、誰」
誰もいない。空耳か。まっ、いい。陽の光を浴びるのも久しぶりだ。ここのとこ、ほんと毎日ウジウジしてたからな。俺は、ぶつくさ言いながら歩く。
すると、すれ違った老女が挨拶してくれた。「まぁ、お久しぶりね。今日は病院。私もよ。今、帰るところなの」と言う。反対から通りかかった老爺からは「いやあ、元気かな。私は、ここのところ足を痛めてね。今度また碁を打ちましょうや」と話しかけられた。
俺、麦藁帽の持ち主に間違われたのかな。この帽子の主って、確か老人だったはず。間違えようもないじゃないか。職を無くしたとはいえ、俺はまだ40歳だ。そんなに早く老けたらたまったもんじゃない。今度誰かに出逢ったら聞いてみよう。
と、早速に声がかかった。
「山根さんじゃないですか。あなたがみえなくなって困ってるんですよ。近いうちに来てくださいな。庭木も淋しがっていますよ」
にこにこ顔の老女に、俺は聞いた。
「俺は……山根じゃないんですけど。その山根さんって何する人だったんですか」
老女は、驚いた様子で俺を覗き込んだ。
「おやっ、ごめんなさい。てっきり山根さんかと思ったわ。山根さん、そりゃあ腕のいい職人さんだったの、ほらっ、庭師さん」
そうだったのか、庭師か。楽しそうだな。それにしても、この帽子の主は知り合いが多かったんだな。俺とは真反対だ。
と、また誰かがしゃべった。
「庭師はいいよ。樹も懐くんだよ。手入れを怠るとひねくれたりもするしね。手入れが終わって、整った庭を眺めるとすっとする。樹は人間を裏切らねぇよ」
「えっ。山根さん。なわけないか。帽子……。も、ないよな」
アパートに戻った俺を待っていた不動産屋は、半ばあきらめ顔で聞いた。
「お客さん、どうされますかぁ」
俺は、慌てて答えた。もちろん、行くところもないし。
「か、借ります。俺、ここ、何かいいことがありそうな。ここから俺、頑張ってみますわ」
不動産屋は揉み手に笑顔で促した。
「何かありましたか。まっ、とにかく、では事務所に行きましょう。早速お手続きを。大家さんも喜ばれますよ」
俺は帽子に「後で」と告げて部屋を出た。
(了)