阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「黒いシルクハット」ササキカズト
嫌な夢を見ていた。
目覚めると、枕の横に黒い帽子が置いてあるのに気付いた。この帽子は……そう、シルクハットっていうやつだ。手品師が鳩を出したり、ミュージカルのダンサーが被っていたりする、あの帽子だ。
こんな帽子は我が家になかったはずだ。恐らくは、妻が悪戯か何かのつもりで置いたのだろう。一体いつの間に置いたのだ。嫌な夢を見た後では、面白くも何とも感じられない。この帽子のせいで、今どんな夢を見ていたのか思い出せなくなっていた。別に夢などどうでも構わないが、嫌な思いをしたという感情だけが残り、何だかすっきりしないのだ。
ベッドの上で体を起こし、あぐらをかいて黒いシルクハットを見た。これをどうしろというのだ。帽子の中に、何か驚かせる物でも入っているのか。帽子を持ち上げてみたが何も置いていないし、中に何か入っている訳でもない。ごく普通の帽子だ。だが、表面の手触りの良さが、妙に手に馴染む。私は、無性に被ってみたいという衝動に駆られた。
結婚して三十年。急にこんなことをする妻の真意がわからない。帽子を被っている私の姿を見て笑おうとでもいうのか。
壁の時計を見ると、朝の六時だった。私の仕事が休みの日は、妻はいつも八時頃起きる。この時間にはまだ眠っているはずだ。寝室を別にしている妻が、急にドアを開けて入って来るということもあるまい。
私は帽子を頭に乗せた。引き出しから手鏡を出して来てベッドに座り、鏡を覗き込んだ。パジャマにシルクハットというのは少々間抜けだが、初めて見る自分の姿は面白く感じた。帽子を傾けてミュージカル俳優を気取ってみたり、貴族の紳士のつもりで表情を作ってみたりした。
と、突然、帽子がきゅうっと、頭に吸い付くような感じがして、同時にめまいに襲われた。私は帽子を取ろうとしたが、頭にぴったりとくっついていて、何度試しても取れなかった。まるで髪の毛と帽子が接着剤で貼り付いてしまったようだ。思いきり力を入れて帽子を引っぱると、髪の毛をわし掴みにしたような痛みが走った。
手鏡で見てみると、髪の毛一本一本が帽子の生地へと入り込んでいる。髪の毛と帽子が一体化しているのだ。どういう仕掛けの帽子なのだ。妻の悪戯にしては度が過ぎる。私は妻を問いただしに行こうと、ベッドから降りようとした。しかし体に力が入らず、起き上がることが出来なかった。
何なんだこれは。取れないことも不思議だが、立ち上がれないとはどういうことだ。まるで帽子に力を吸い取られているようだ。
突然、帽子が軟体動物のように動いて、頭を深く覆ってきた。帽子のへりが、眉毛のすぐ上あたりまで下がっていた。かろうじて動く手で帽子を引っぱるが、皮膚がくっついていて取れない。手鏡で見てみると、帽子の内側と、ひたいの皮膚が同化しているように見える。帽子と皮膚の間に爪をこじ入れると、裂けたところから血が流れた。
そんな馬鹿な。こんなことあり得ない。帽子と皮膚が同化するなどあるわけがない。
妻なのか? 私をこんな目に遭わせるのは。私が何をしたっていうのだ。
帽子はぐねぐねと、深く頭を覆って行き、へりがまぶたの位置まで下がって来た。まぶたの皮と帽子が一体化して、私はまばたきが出来なくなった。しかしそれも僅かの間のことで、すぐに帽子が私の視界を奪った。真っ暗になったが、帽子が頭部を覆っていく感覚だけはあった。
鼻、そして口が、帽子に塞がれた。呼吸をしているのかどうか、よくわからなかった。
やがて肩や胸も、帽子に覆われていった。帽子は一体どういう状態なのだろうか。私は、何とか手を動かし、自分の頭をさわろうとした。しかし、頭があるはずの場所には何も無く、首の付け根あたりの位置に、帽子の上面があった。私は首無しで、上半身で帽子を被っているような状態だった。
私は帽子に食われているのか。それとも、帽子の中に入って行っているのか。
意識はあり続けたまま、どんどんと体が帽子に呑み込まれていった。腰、腿、膝と呑み込まれ、最後に足先が呑み込まれた。
私は、帽子になった。
……目覚める前に見た嫌な夢はこれであったと、私は今、思い出していた。
ノックの音がして、ドアが開く音が聞こえた。「起きてる?」という妻の声。「あら、帽子?」と不思議そうに言う。妻の仕業ではなかったのか。
果たして妻は《私》を被るのだろうか……。
(了)