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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「忘れてた」新野浪多

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第65回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「忘れてた」新野浪多

 何だっけ?

 何かとても大切なことを忘れているような気がする。先ほどから必死になって思い出そうとしているのだが、どうにも思い浮かばぬ。

 病院の中は、まるで戦場だった。本来静粛であるべき筈の空間に罵声と怒号が飛び交い、血相を変えた人々が殺気立って駆け回っている。点滴を旗みたいに立てたストレッチャーが患者を乗せ、ギイギイと嫌な音をたてながら、ひっきりなしに廊下と処置室を往復する。

 全ては新型コロナウィルス蔓延のせいだ。毎日大量の感染者が運び込まれる。あらゆる物が足りなかった。薬もベッドも医療器具も。マスク一つさえ思うように手に入らない。何よりも人手が足りなかった。そう。人手が。

 今日は非番だが帰る気にもなれず、こうして医師として病院に居残っている。ここ一週間ほどロクに眠っていない。家には一月近く帰っていない。ウィルスは感染爆発寸前だが、私からの家族サービスを全く受けていない妻と娘の怒りも爆発寸前だろう。

 いかんいかん。今は非常時だ。個人の問題にかまけている場合ではない。家族のことも何を忘れてしまったのかも非常に気になるが、一旦頭の隅に追いやって治療に専念しよう。

 そう思った途端、視界に一人の人物が飛びこんできた。ゲッと思わず声が漏れた。よりにもよって。一番来てほしくない時に一番来てほしくない人がやって来た。私の患者の一人、三沢さんだ。検査の結果を聞きに来たに違いない。私は嘆息をついて彼の方へ歩いた。

 空部屋の一つへ彼を案内すると、向かい合って座り、面談を始めた。彼はしゃべり始めると止まらない。ダムが決壊したみたいに次から次へと口から言葉が飛び出してくる。その大半が不平や愚痴や根拠のない妄想なのだ。

「あの女はひどい奴です。一番最初に出血いや大出血したと打ちあけて現場を見せた時も、顔色一つ変えなかった。私の血で真ッ赤に染まった便器を見て何と言ったと思います?

「あなたが掃除してよね。あなあたが汚したんだから」の一言ですよ。大丈夫? とか今すぐ救急車呼ぶわとかフツー言いません? 挙げ句の果てに「もう大人なんだから病院くらい一人で行けるわよね」ですよ!」

 三沢さんはポロポロと悔し涙をこぼした。

 申し訳ないがもう何回、何十回と聞かされた話なので同情する気もかなり薄れていた。

「三沢さん。あなただけじゃないんですよ。どんな可愛くて素敵な女性も結婚すればそうなるんです。男なんてね家庭内カーストの中じゃ底辺か最底辺に位置する惨めな弱者です。

 妻にとって一番大切なのは自分自身で、二番目は子供達なんです。自分の分身ですから」

「じゃあ我々亭主は三番なのですか?」

「いいえ残念ながら三番はポチかタマですね。いつも側にいてくれて黙って愚痴を聞いてくれ、癒してくれるペットの方が亭主なんかよりずっとずっと大切なんですよ。おっと脱線した。そろそろ本題に入りましょうか」

 三沢さんはゴクリと唾を呑んだ。

「先生。何度も何度も申し上げましたが、もう一度言います。私、病気で死ぬのだけは絶対に嫌なんです。父も母も大病を患い、苦しみ抜いてそれはそれはひどい死に方をしました。人間ですからいつか死ぬのは仕方ない。

 ですが、せめて死に方だけは選びたい。もしも私の病が治らないものなら、苦しみ抜いて死ぬのは御免です。苦しまず楽に死ねる方法で自殺するつもりです」

 やれやれ。そんなに病で死ぬのが嫌なのか。「さァ先生。私がどんな病だったのか検査の結果を包み隠さずありのままにおっしゃって下さい。もう覚悟はできてますから。」

「いいでしょう」

 苦笑いを浮かべながら、私は結果を話した。

「御期待に添えず申し訳ありませんが。重くて手遅れの末期癌でも、アンドロメダから来た未知の病原体による内蔵溶解でもありませんでした。三沢さん。あなたは正真正銘の切れ痔でした。とても死ぬほどの病ではない」

「助かった! 病で苦しんで死なずに済む」

 私の目の前で万歳三唱する三沢さんへ私は更に決定的事実を告げた。とどめの一撃を。

「三沢さん。今回に限らず今後もあなたが病で苦しんで死ぬことなど永遠にありませんよ。なぜならあなたは三日前に交通事故で既に亡くなっているのですから。安心して成仏なさい」

 世にも幸せそうな表情を浮かべた三沢さんの体が次第に透けていき、やがて消えた。

 とんだ時間の浪費だった。死者にかける暇があったら生者にかけねば。新たな死者を生まぬ為にも。決意を込め、立って歩き出す。

「ちょっと」と早速スタッフを呼び止め、指示を出そうとした。だが何回声を掛けても誰一人立ち止まらず、振り向きさえしない。聞こえないのかと肩や腕に触れても手応えはなく、私の手は相手の体を通り抜けるばかり。

 やっと思い出した。そうだ。私は今朝過労死をしたのだ。忙し過ぎてつい忘れていた。

(了)